「詩人 井伏鱒二 - ねじめ正一」読むところ敵なし から

 

「詩人 井伏鱒二 - ねじめ正一」読むところ敵なし から

最近になって、井伏鱒二の『厄除け詩集』を読んだ。井伏さんの小説は大好きで、「山椒魚」にしても「シグレ島叙景」にしても年に何度かは読まずにはいられないほどなのに、詩を読むのはこれがはじめてである。
井伏さんが若い頃から誌を書いておられたのは知っていたし、〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉という名文句ももちろん知っていた。じつは私は、井伏さんの詩を意識的に後回しにしてきたのである。私は詩に対して思い込みが強い。かなり強い。あれほどすばらしい小説を書く井伏さんの詩が、もしかひょっとしてつまらなかったらどうしようと思うと、読むのがこわかった。
しかも〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉がある。このフレーズがあまりにも有名で、あまりにもひとり歩きをしているせいで、ますますこわくなった。人が死ぬ瞬間につぶやくコトバとして、〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉はぴったりである。意味が込められている井伏さんの詩がみんな、このフレーズみたいな意味だらけのコトバでできてるとしたら困ってしまう。
そんなこんなで、こわいこわいと後回しにしているうちにどんどん月日がたってしまった。これではイケナイと本棚から『厄除け詩集』を引っぱり出したのは今年の一月、私自身の六年ぶりの詩集の原稿を編集者に渡した翌日である。結論から言うと、私の心配は杞憂だった。井伏さんの詩は小説とはぜんぜん違うものの、やっぱり井伏さんらしくコトバとちゃんと向き合っていた。その向き合い方がよかった。力むでなく、コトバの芸を見せるでもなく、むしろへろへろになろうとして詩に向かっているのだ。

つくだ煮の小魚

ある日、雨の晴れまに
竹の皮に包んだつくだ煮が
水たまりにこぼれ落ちた
つくだ煮の小魚達は
その一ぴき一ぴきを見てみれば
目を大きく見開いて
輪になって互にからみあってゐる
鰭も尻尾も折れてゐない
顎の呼吸するところには、色つやさへある
そして 水たまりの底に放たれたが
あめ色の小魚達は
互に生きて返らなんだ

本当に頼りない詩である。教科書に載せても、読んだ生徒たちは元気が出てこない詩である。この詩を読んだとき、私にはつくだ煮ではなくて煮干しの姿が浮かんできた。家が乾物屋をやっていたので、煮干しはお馴染みだったのだ。店頭に山積みになった煮干しは、よく見るとこの詩にあるようにはあっちを向いたり、こっちを向いたりしてからみあっている。目もちゃんとある。鰭も尻尾も折れていないのはもちろんで、折れている煮干しはよい煮干しではないのである。