「三鷹(抜書) - 津島美知子」河出文庫 太宰よ!45人の追悼文集 から


三鷹(抜書) - 津島美知子」河出文庫 太宰よ!45人の追悼文集 から

昭和十五、六年頃はまだ戦争の影響もさほどでなく、太宰の身辺も平穏であった。
この頃は小旅行をよく試みた。そのうちで私が同行したのは、十六年の小正月の伊東への一泊旅行と、十五年七月の伊豆旅行の帰途とである。甲府には頻繁に行った。太宰は甲府市内はもちろん、勝沼の葡萄園、夏は月見草でうずまる笛吹川の河原や、甲運亭という川べりの古い料亭、酒折宮[さかおりのみや]や善光寺湯村温泉富士川沿いに南下して市川大門町などに足跡を残しているから、やはり郷里についでは甲州をよく歩いている。
伊東の旅行のときは、一度きめて入った宿なのに、気に入らずに出て、別の旅館に行ったり、帰りに寄った横浜の中華街では、安くてうまい店を探してさんざん歩きまわり結局つまらない店に当たったりして、この一泊旅行といい、八十八夜の旅といい、「東京八景」を書くために滞在した湯ヶ野の宿といい、宿屋の選定、交渉などは全く駄目な人であった。結局それは旅行下手ということになるだろうと思う。誰でも初めての旅館の玄関に立つことには、ためらいを感ずるものではあるが。太宰の場合、郷里では旅先にそれぞれ定宿があり、生家の顔で特別待遇を受けてきた。生家の人みな顔の利かないところへは足をふみ入れない主義のようである。そして旅立ちするとなると、日程、切符の入手、手荷物の手配、服装に至るまで、いっさい整えられて身体だけ動かせばよいのだ。過保護に育ち、人任せの習慣が身についていた。その一方
一度行ってよい印象を受けたところには、二度三度と訪れて、案内役のような形で先輩友人と同行している。三保灯台下の三保園、甲州の葡萄郷や甲府市街、湯村温泉奥多摩などである。結局三島から西には旅行することなしに終ってしまったが、戦時中だったためにそういう結果になったまでで旅行ぎらいではなかった。食堂車でビールを飲む楽しさを語ったことがあるから、長生きしていたら大いに旅行していたかもしれない。気が利いて何から何までやってくれるおともだちがいたらという条件つきであるが-。
十五年の七月の初めに、太宰は大判の東京明細地図を携えて執筆のために伊豆の湯ヶ野へ出発した。
出発の時の約束に従い十二日に私は滞在費を持って迎えに行った。その宿は、伊豆の今井浜から西に入った、ほんとに温泉が湧いているというだけのとり所のない山の湯宿で、私が二階の座敷に通されたとき太宰は襖をさして、あの梅の枝に鴬が何羽止まっているか数えてごらんと言った。粗末な部屋であった。夕方散歩に出たが蝉が暑苦しく鳴き、宿の裏手は山腹まで畑で、南瓜の蔓が道にのびていた。

翌日ここを発って谷津温泉の南豆荘に寄った。ここは井伏先生のお馴染の宿で、井伏先生は広々した涼しそうな座敷に滞在中であった。簾越[すだれご]しに眺められる庭は、緑どりに小松や咲き残りのくちなしとあじさいが植えてあるだけの自然の芝庭であった。
午後散歩に出ると、川沿いの道を釣師姿の亀井勝一郎氏が向こうからやって来た。
この宿で三人で落ち合って釣と酒の清遊を楽しむ約束になっていた。そのころはどんよりしてはいたが、降ってはいなかったのに、夜半、洪水に急襲されたのである。夕食後、三人の先生方がしめし合わせて、どこかへ出かけた頃から降り出し、夜ふけて帰ってきたときには土砂降りだった。当時まだ使われていない言葉だが「集中豪雨」に見舞われたのであろう。玄関わきの私どもの部屋に裾端折[すそはしよ]りで太宰が帰ってきて寝入ってしばらく経ってから私は、奥の調理場と思われる方角からはげしい雨音に交って女の人が何ごとか叫ぶ声で目を覚まし、電灯をつけて縁側に出た。するとほんの二間ほど先から縁側の板の上を音もなく、ねずみのようにするすると、水が這い寄ってくるのが見えた。それから太宰を叩き起こしたのだが、泥酔しての寝入りばななので手間どってやっと起こして、枕もとの乱れ籠の衣類をとり上げると、一番下に入れておいた単[ひと]え帯に水がしみていた。もう畳の上まで浸水していたのどある。井伏先生の部屋にまわり、先生とご一緒に二階の亀井さんの部屋に避難しようとしたときは、膝近くまで増水していて足もとが危いので、私の絞りの腰紐に順々に掴まって階段を上った。誰かが井伏先生はもう少しでおやすみになったまま蒲団ごとプカプカ流れ出すところだったと言って、皆笑い出した。そのころはまだ余裕があったのだが、やがて電灯が消えて真の闇の中、篠つく雨の勢は一向衰えず、だんだん恐ろしくなってきた。周囲の状況が全くわからないので、私はこの家が海へ流れ出たらどうしようか、まさかと思っているうちに死ぬ場合もあるのだろうなどと考えていた。
このとき、亀井さんは積み重ねた蒲団の上に端座して、観音経を誦[ず]し、太宰は家内に向かって人間は死に際が大切だと説教していたとか、いろいろな伝説が伝わっている。井伏先生と亀井さんとが、こんな場合には子供のことを考えるね、と話し合って居られてまだ子供のなかった私は、親となればそういうものかと思って聞いていた。大体三氏とも、目は覚めてはいたものの、酔が残っていて意識ははっきりしていなかったのではなかろうか。ほかの方はともかく、このときのことを、太宰はほとんど記憶していないことを後日知った。
一夜あけて翌日は昨夜の騒ぎが嘘のような好天であるが、南豆荘では階下全部冠水しておかみさんは悲嘆にくれていた。
私たち一行は谷津から三キロほど川上の峯温泉まで歩いて一泊し、バスが復旧するのをまって帰京した。