(巻三十五)草深く取りにがしたるきりぎりす(井上明華)

(巻三十五)草深く取りにがしたるきりぎりす(井上明華)

12月26日月曜日

冬晴れ。寒いというほどではない。もちろん暖房など入れていない。

○○さんがちょっとpessimisticな長文のメッセージを顔本に載せた。

"But death was sweet, death was gentle, death was kind; death healed the bruised spirit and the broken heart, and gave them rest and forgetfulness; death was man’s best friend; when man could endure life no longer, death came and set him free."

~Mark Twain (Letters From the Earth)

というのもあるよ、と返そうかと思ったが、万一引き金なったら大変なので“いいね”だけにしておいた。

細君が早々と正月料理用の野菜を買いに駅前まで出かけた。生協にはよいものがないとのことだ。そういうわけで朝家事はなかったが、細君が昼前に戻りすぐに洗濯をいたす運びとなった。

洗濯日和、蒲団干し日和である。

細君外出につき、昼飯は赤飯パックとカップ坦々麺。一息入れて、散歩。

稲荷のコンちゃんに挨拶。お出迎えを受ける。背中を撫でたが、まだ触られるのはいやな様子。時間を掛けよう。

そこから曳舟川を上る。途中で裸の柿を一撮。

冬隣裸の柿のをかしさよ(坪内逍遙)

進んで、駅下のビーンズを歩く。正面には早、門松が飾られていた。

今日の散歩は年賀用画像の撮影が目的で、その一つがパスタの一撮だった。そんなわけで、マルナカ商店に入り、牡蠣、タラコ・スパゲティーでワインを2杯傾けた。締めて二千五百円也。牡蠣でワイン2杯がちょうどいいあんばいだが、スパゲティーを撮るのが目的だから仕方がない。店は女子会らしき数組いて繁盛していた。

そこから銀座の食品マーケットに回りそれらしい風景を一撮。これも使える。

取材を終わり、都住のクロちゃんを訪ねた。風が強いので段ボールシェルターにいたがすぐに出てきて擦り擦り。クロちゃんにスナックをあげていたら、階段にサンちゃんが現れた。睨んでいる。クロちゃんはすっかり動揺して浮き足立って逃げ腰となる。体格も若さもクロちゃんの方に分があるのだが、そこは姐さんの貫禄の違いらしい。

私もあたかも浮気の現場を本妻に見つかったかのように、スゴスゴとサンちゃんのシェルターに戻りサンちゃんスナックを二袋振る舞いご機嫌をとり、またクロちゃんのところへ戻り言い訳のように一袋振る舞う。本宅と妾宅が近すぎるのはトラブルの元だ。

本宅・妾宅を退去して、郵便局により葉書を二枚買う。俳壇へは週一で出してみよう。

願い事-涅槃寂滅です。消える以外に安心はない。

今日は

三鷹(抜書) - 津島美知子」河出文庫 太宰よ!45人の追悼文集 から

を読んだ。太宰夫人の見た南豆荘遭難である。井伏鱒二の回想と少し違う。違うところがよろしいのだ。

小説を書きたくなりぬ枯木宿(吉野佳一)

「南豆荘の将棋盤 - 井伏鱒二」日本の名随筆67宿 から

去る二月上旬、天城連峰周辺の街道を巡つて来た。道づれは印南君である。三泊か四泊の旅。三日目の泊りは、谷津の南豆荘で、女中に将棋盤と駒を貸してくれと頼むと、おかみさんが新しい駒と古めかしい盤を持って来て、「この盤に見覚えがございますか」と云つた。

この将棋盤は木目の乱れた厚い欅の材で出来てゐた。将棋聯盟で規格されてゐる寸法より少し薄く、しかも脚が取れてゐた。「見覚えがありません」と云ふと、「御存じないんですか、例の大洪水のとき、ここへ流れて来た将棋盤です」と云つた。

例の大洪水のときといふのは、昭和十五年七月十二日の夜のことで、その晩、私はこの旅館に泊つてゐた。私は階下の部屋に眠つてゐたが、夜なかの二時ごろ「水だ水だ」と叫ぶ声で起き上ると、このときにはもう畳が水に浮いて、自分は浮いてゐる畳の上の蒲団に寝てゐたことに気がついた。

「この蒲団は畳ごと浮巣だな」と思つた。

急いで蚊帳の外へ出た。リュックサックを背にすると、畳を踏み沈めたので、浮いてゐる方の畳のふちで向臑を打つた。

私は二階へ駈けあがり、そのとき同宿してゐた亀井勝一郎の寝ている部屋に駈けこんだ。すると離れに泊つてゐた同宿の太宰治夫妻が駈けこんで来た。太宰は畳の上にきちんとかしこまって、「人間は死ぬときが大事だ。パンツをはいておいで」と細君に云つた。しかし水が刻々に増えてゐるのだから、それは無理である。細君は無言のままうつむいてゐた。

亀井君は割合に落着いてゐるやうに見えた。むしろ非常に落着いてゐるやうに見えた。一言も口をきかないで、のろのろと蚊帳をはずして蒲団をたたみ、それを積み重ねた上に腰をおろし、夜空の一角に目を向けた。その方角の空では、しきりに稲妻が光つてゐるのに雷鳴が一向にきこえなかつた。どうも不思議だと思つた。幾ら稲びかりしても音はきこえない。

そこへ宿のおかみさんが尻端折りで駈けこんで来て、

「お客様がたに何とも申訳ございません。皆様、このまま遭難されるといふことになりますと、私どもとしましては、何とも心苦しうございます。申訳ございません」と畳に手をついて頻りに頭をさげた。そのたびごとに、ふところから貯金帳がこぼれるので、

「お母さん、みつともないわ。もすこし落着いて頂戴よ」と宿の娘さんがたしなめた。

おかみさんは階下へ電話をかけに降りて行つたが、すぐに引返して来て、「台所の電話も、もう水につかつてしまひました」と云つた。さつき郵便局へ助船を求める電話をかけたときには、まだ一尺ほど電話機が水から離れてゐたさうで、郵便局の人の話では、三宅島が大爆発したので東京方面でも大騒ぎをしてゐるらしいといふ。

外は暗闇であつたが、ときどき稲妻が光るので、いろんなものが、川上から流れて来るのがわかつた。流木のほかに、鳥居のやうなもの、★子窓、雨戸などが矢のやうに流れて来て、どしんと庭木に突きあたる。もし庭木がなかつたら、まともに家に突きあたる。この際、庭木が頼みの綱のやうなものだ。なかでも貧弱な三本のポプラの木が一番たのもしい。たいていの流木はこのポプラに突きあたつて、きりきり舞ひをしてから脇に流れて行く。三本、不自然に並んだよろよろのポプラである。私は初めてこの宿に来たとき、このポプラの木があるのでこの庭も台なしだと思つたが、そんな不逞なことを思つて相すまなかつたと考へを変へた。

軒の物干竿をとつて、廂の上から水の深さを計つてみた。七尺くらゐの深さがあつた。川上から押寄せて来る水は、少し高みになつてゐる庭の隅で大げさに渦を巻いてゐた。そこにこんもりした紫陽花の木が濁水にもまれ、たくさんの手毬のやうな花が縦横無尽に揺れ動いた。それが稲びかりの明るみで見えた。何か凄惨な感じで、また幾らか艶なるものであつた。

助船の来ないままに夜が明けた。水が引いたあとは、離れの濡縁に泥土がたまり、コンクリートで造つた台のやうに見えた。階下の私のゐた部屋には、床の間に鉄の香炉が一つ残つてゐるだけであつた。廊下に出しておいた釣竿も魚籃もみんな流されてしまつた。

後になつて、亀井君の話では、あのときにはおそろしさのあまり蒲団に腰をかけ、口のなかで観音経を口誦んでゐたさうであつた。太宰君の説によると、亀井は腰を抜かしてゐたのだといふのであつた。しかし腰を抜かした者は、蚊帳をたたむことも蒲団をたたむことも出来ない筈だ。

流失したと思つてゐた私の竿は、土地の人が宿へ持つて来て、「この竿は、お宅のお客さんの竿でせう。川下の橋桁に引つかかつてゐました」とおかみさんに云つたさうだ。赤い漆の色で見分けがついたのださうである。釣竿は濁流につかつてゐたので撚りが戻つて、つなぎ合せてみると曲りくねつてゐた。とても使ひものにならないので宿に置いて来た。

昭和十五年七月十二日の三宅島噴火の顛末は、後日、この島の浅沼悦太郎氏から詳細を聞かされた。やはり稲妻が光つても雷鳴はきこえなかつたといふ。

将棋盤が流れて来たことは忘れてゐた。内庭に流れて来たといふことだから、床下から流れこんだものだらう。私は印南君とこの盤で指して三対一で勝つた。