(巻三十七)でたらめな口笛がゆく春あした(中村小城南)

(巻三十七)でたらめな口笛がゆく春あした(中村小城南)

6月6日火曜日

晴れ。朝家事はなし。その代わり、電気安全協会の漏電検査があった。検査員さんはおばちゃんだ。居宅に上がり込んで安全器を検分するのだからおばちゃんの方が良いのかもしれない。異状なし。

昼飯喰って、一息入れて、コチコチしてから散歩。図書館で5冊借りたが全て私の能力では読めない。明日にでもお返しに上がろう。

猫さんは、クロちゃん不在、コンちゃんは「まぁ、少し付き合ってあげるわ」程度の反応。トモちゃんはいたが、ボスの黒猫がいたのでビクビクしていた。ボスが立ち去ったら近寄ってきたので二袋あげた。ボスには風格がある。

願い事-涅槃寂滅、ポックリ御陀仏。

今日もお稲荷にお願いしておいた。

太宰治の『花吹雪』を読んでいたら、武蔵の『独行道』が引用されていた。「神仏を尊み神仏を頼まず」の含まれている、あれである。

で、

「フェアプイーか無私か - 山折哲雄中央公論新社刊 こころの作法 から

を読み返してみた。

この先を考えている豆のつる(吉川英治)

「フェアプイーか無私か - 山折哲雄中央公論新社刊 こころの作法 から

「語り」ということでいえば、講談調の語りとか浪曲調の語りというのがあった。それが学校の教室などでも結構活用されていた。しかし戦後になって、これらの語り物はさきにふれた新時代の視聴覚教育の流行に押されてしだいに衰退していった。いや、衰退どころか、軽蔑され忌避されていった。それにともなって、教師の側における語りの能力、生徒にむかって語りかける情熱も衰えていった。散文的な解説や分析だけが目立つようになったのではないだろうか。

かつての講談調の語りや浪曲調の語りのなかには、よく知られた歴史的な事件や人情話が満載されている。それらの語りを息をのんできいているうちに、自然に歴史のひとこまを覚えたり、人情の機微に目を開かれたりしたのである。そしてそういう語りを身につけている教師に生徒たちは拍手喝采を送っていた。たとえば堀部安兵衛が登場する「高田の馬場」の仇討、あるいは不義密通のはてに自殺してしまう「樽屋おせん」の話などである。そのような語り物のなかで人気があったのが、宮本武蔵千葉周作のような剣の達人の話ではなかっただろうか。

それらの昔語りの定番を、私は今日の時代の趣向に合わせて、学生たちの前で語ってきかせるときがある。たとえば剣の道はフェアプレイか無私か、といったテーマを掲げて - 。

斎藤茂吉はどうも、宮本武蔵が好きではなかったらしい。それというのも、武蔵は武士の風上にもおけぬ卑怯者だといっているからだ。

茂吉は昭和五(一九三〇)年に「巌流島」というエッセーを書いているが、そのなかで独特の宮本武蔵論を展開している。私は、はじめてその文章にふれたときの驚きを忘れることができない。面白い議論といえばいえるが、それにしても茂吉は本気でそう思っているのだろうか、という疑念がわきおこってきたのである。

慶長十七(一六一二)年のことだった。下関から目と鼻の先の海上にある巌流島で、佐々木小次郎巌流という剣客が宮本武蔵と闘い、敗れてこの島で殺された。つばめ返しの小次郎と二刀流の武蔵の決闘だった。

勝負の日、両名は辰の上刻(午前七時)までに島に到着する約束になっていた。しかし武蔵はわざと三時間も遅れてやってきた。時間通りにきていた小次郎はいただち怒り狂ったが、武蔵はそれに冷笑をあびせたまま闘いにのぞんだ。剣を抜いて襲いかかってくる小次郎に武蔵は重い木刀で立ちむかい、ついにその頭蓋を打ちくだいた。小次郎は武蔵の術中に陥ったまま、勝機を逸したのである。

斎藤茂吉は、そうしたやり方で勝った武蔵を卑怯者とののしった。かれは自分の足で巌流島を訪れ、現場を見てそういっている。三時間も故意に敵をいらいらさせた武蔵を憎悪し、むしろ小次郎に同情するとさえいっている。一方の小次郎が剣で闘おうとしたのにたいし、武蔵が断りも通知もせずに木刀を使っているのも、あざとい仕業で面白くない。武蔵は六十度も真剣勝負をしているため、その勝負の骨(こつ)をのみこみすぎていて、それも面白くないといいつのっている。思いこんだら一歩も退かぬ、いかにも茂吉らしい憤懣の爆発である。

いわれてみて、私はなるほどと思った。茂吉の腹立ちも同情できる。武蔵をさむらいの風上にもおけぬ奴、といって怒るのにも一理あるのではないか。ところが、当時この茂吉の文章を読んだ菊池寛が、すぐさま反論の筆をとった。 - いくら茂吉がそんなことをいっても、あの時代ではやはり武蔵が一番強い。いきおい尊敬せざろうえないのではないか、と。

茂吉が猛然と反撃したことはいくまでもない。ふたたび「巌流島後記」なる小文を書いて応じたのである。小説家の菊池氏ともあろうものがその程度のことでは、人間にたいする観照がいかにも浅いではないかと諫めて、つぎのようにいっている。 - 武蔵が強く巌流が弱かったという結論には、自分も異存はない。しかしかれらの決闘はそもそも技を較べるところにあったのだから、それは一種のスポーツだと解釈していい。とすれば当然、その闘いにはスポーツ精神が要求される。スポーツ的規律、スポーツ的約束にしたがわなければならない。そのスポーツ精神が武蔵によって裏切られたのである。とうてい許すわけにはいかないのではないか。

フェアプレーの精神である。たとえば、アメリカの西部劇映画などによくでてくる決闘の場面がよみがえる。二人の荒くれ男が、一定の距離をおいて拳銃を撃ち合う。銃声が宙空の奥に吸いこまれていったあと、一方が倒れ一方が勝利の笑みえを浮かべて立っている。男が二人、命をかけて技を競う。であれば、決闘の舞台はフェアな形に整えられていなければならない。奇襲作戦、からめて攻撃などはもっての外、という思想である。ひょっとすると茂吉は、ハリウッド型西部劇のファンであったのかもしれない。

さて、司馬遼太郎が好きだった剣客が千葉周作だった。東北は盛岡藩の馬医者のせがれで、北辰一刀流を編みだした。諸国で武者修行をしたあと江戸にのぼり、神田お玉ヶ池に道場を開いた。門弟三千人といわれているから凄いものだ。水戸藩徳川斉昭の剣術師範もつとめた。幕末屈指の剣客だったといってもいい。

司馬遼太郎千葉周作を主人公にして小説『北斗の人』を書いたのが昭和四十(一九六五)年のことだった。波瀾にとんだその半生を生き生きと描いているが、作者が千葉周作に惚れこんだ理由は、かれの剣が無駄のない合理の剣だったところにある。短時日のうちに技を教え、剣の極意を体得させる点にあったようだ。門弟三千人を抱えることができたのも 、おそら くそのためだったのだろう。同じように合理の精神を重んじた宮本武蔵のこころのありかを、それは彷彿させる。

『北斗の人』の巻末近くに、千葉周作の「一夜秘伝」といわれている話がでてくる。

六十をすぎてから周作は病床に臥す日が多くなった。死ぬ前年の六十一歳のときだった。ある日の夜、見知らぬ者の訪問をうけた。さる大名の茶坊主で、春斎と名乗った。その者がいうには、今夕、主家の急用で駿河台までくる途中、御持院ヶ原で浪人の辻斬りにあった。春斎は、いま殺されるわけにはまいりませぬと、その辻斬りに命乞いをいた。主家の御用の中途なので、殺されてはこの御用がはたせない。きっと、帰路に殺されてさしあげる。しばしの猶予をいただきたいというと、その辻斬りは主家の定紋をみて、見のがしてくれた。今ようやく用をはたし終えたので、これから御持院ヶ原に引き返そうと思う。ただ自分には剣の心得がない。それで立派に斬られるにはどうしたらよ いかを教えていただきたいと思って、高名な先生の門をたたいたのである........。

それをきいて周作は感動した。病床から立ちあがったかれは、枕頭(ちんとう)の太刀ををとり、すらりと抜いて茶坊主にもたせた。大上段にふりかぶらせ、脚の開き方、呼吸のつかい方、丹田(たんでん、へその下、腹の奥)の力の入れ方などを手をとって教え、最後に「目をつぶるのだ」といった。そのままの姿勢でいると、やがて体のどこかで冷っとする、そのとき刀を打ちおろす、そうすれば、醜くない死に方ができる、と。

そう教えられた春斎は大変喜んで、そのまま約束の場所にとって返した。待ちかまえていた浪人が剣を抜き、正眼につけて迫ってくる。春斎はいわれた通り、上段にふりかぶって目を閉じた。「すでに冥土にいると思え」と周作にいわれた通り、かれは生きる執着を去っていた。

四半刻(しはんとき)ばかり、二人はそのまま対峙していたが、ついに浪人は飛びのき、剣をおさめて 「よほど使える」> と、逃げるように立ち去った。

このとき周作が春斎に伝授したのが、日ごろからいっていた「夢想剣」の極意というものだった。春斎は生きのびるつもりがなかったために、剣士が生涯かかって到達しうる心境に、一瞬で到達したのである。

翌年、千葉周作はこの世を去るが、あとに建てられた墓石には、かれがもっとも好んだ言葉が刻まれているという。

それ剣は瞬息

心気力の一致

剣は一瞬の気合だ、というのであろう。

私ならさしずめ

それ剣の道は

フェアプレイの精神か

生きる執着を去った無私の精神か

と問うてみたいところだ。

地下の千葉周作斎藤茂吉のご両人にそうきいてみたいような気がする。