「花吹雪(抜書) - 太宰治」太宰治滑稽小説集 から

 

「花吹雪(抜書) - 太宰治太宰治滑稽小説集 から



このたびの黄村先生の、武術に就いての座談は、私の心にも深くしみるものがあった。男はやつぱり最後は、腕力にたよるより他に無いもののやうにも思はれる。口が達者で図々しく、反省するところも何も無い奴には、ものも言ひたくないし、いきなり鮮やかな背負投げ一本くらはせて、そいつのからだを大きく宙に一廻転させ、どたん、ぎやつといふ物音を背後に聞いて悠然と引上げるといふ光景は、想像してさへ胸がすくのである。歌人西行なども、強かつたやうだ。荒法師の文覚が、西行を、きざな奴だ、こんど逢つたら殴つてやらうと常日頃から言つてゐた癖に、いざ逢つたら、どうしても自分より強そうなので、かへつて西行に饗応したとかいふ話も伝はつてゐるほどである。まことに黄村先生のお説のとほり、文人にも武術の錬磨が大いに必要な事かも知れない。私が、いつも何かに追はれてゐるやうに、朝も昼も夜も、たえずそはそはして落ちつかぬのは、私の腕力が貧弱なのがその最大理由の一つだつたのであらうか。私は暗い気がした。私は五、六年前から、からだの調子を悪くして、ピンポンをやつてさへ発熱する始末なのである。いまさら道場へかよつて武技を練るなどはとても出来さうもないのである。私は一生、だめな男なのかも知れない。それにしても、あの鴎外がいいとしをして、宴会でつかみ合ひの喧嘩をしたとは初耳である。本当かしら。黄村先生は、記録がちやんと残つてゐる、と断言してゐたが、出鱈目ではなからうか。私は半信半疑で鴎外全集を片端から調べてみた。しかるに果してそれは厳然たる事実として全集に載つているのを発見して、さらに私は暗い気持になつてしまつた。あんな上品な紳士然たる鴎外でさへ、やる時にはやつたのだ。私は駄目だ。二、三年前、本郷三丁目の角で、酔つぱらつた大学生に喧嘩を売られて、私はその時、高下駄をはいてゐたのであるが、黙つて立つてゐてもその高下駄がカタカタカタと鳴るのである。正直に白状するより他は無いと思つた。
「わからんか。僕はこんなに震へてゐるのだ。高下駄がこんなにカタカタと鳴ってゐるのが、君にはわからんか。」
大学生もこれには張合ひが抜けた様子で、「君、すまないが、火を貸してくれ。」と言つて私の煙草から火を移して、そのまま立去つたのである。けれども流石に、それから二、三日、私は面白くなかつた。私が柔道五段か何かであつたなら、あんな無礼者は、ゆるして置かんのだが、としきりに口惜しく思つたものだ。けれども、鴎外は敢然とやつたのだ。全集の第三巻に「懇親会」といふ短篇がある。

 

(前略)
此時座敷の隅を曲つて右隣の方に、座蒲団が二つ程あいてゐた、その先の分の座蒲団の上へ、さつきの踊記者が来て胡座をかいた。横にあつた火鉢を正面に引き寄せて、両手で火鉢の縁を押へて、肩を怒らせた。そして顋を反らして斜に僕の方を見た。傍へ来たのを見れば、褐色の八字の髭が少しあるのを、上に向けてねぢつてある。今初めて見る顔である。
その男がかう云つた。
「へん、気に食はない奴だ。大沼なんぞは馬鹿だけれども剛直な奴で、重りがあつた。」
かう言ひながら、火鉢を少し持ち上げて、畳を火鉢の尻で二、三度とんとんと衝いた。大沼の重りの象徴にする積りと見える。
「今度の奴は生利に小細工をしやがる。今に見ろ、大臣に言つて遣るから。(間。)此間委員会の事を聞きに往つたとき、好くも幹事に聞けなんと云つて返したな。こん度の逢つたら往来へ撮み出して遣る。往来で逢つたら刀を抜かなけりやならないやうにして遣る。」
左隣の謡曲はまだ済まない。(中略)そして今度逢つたらを繰り返すのを聞いて、何の思索の暇もなくかう云つた。
「何故今遣らないのだ。」
「うむ。遣る。」
と叫んで立ち上がる。
以上は鴎外の文章の筆写であるが、これが喧嘩のはじまりで、いよいよ組んづほぐれつの、つかみ合ひになつて、
(中略)
彼は僕を庭へ振り落さうとする。僕は彼の手を放すまいとする。手を引き合つた儘、二人は縁から落ちた。
落ちる時手を放して、僕は左を下に倒れて、左の手の甲を花崗石で擦りむいた。立ち上がつて見ると、彼は僕の前に立つてゐる。
僕には此時始めて攻勢を取らうといふ考が出た。併し既に晩かつた。
座敷の客は過半庭に降りて来て、別々に彼と僕とを取り巻いた。彼を取り巻いた一群は、植込の間を庭の入口の方へなだれて行く。
四五人の群が僕を宥めて縁から上がらせた。左の手の甲が血みどれになつてゐるので、水で洗へと云ふ人がある。酒で洗へと云ふ人がある。近所の医者の処へ石炭酸水を貰いに遣れと云ふ人がある。手を包めと云つて紙を出す。手拭を出す。 (中略)

 

鴎外の描写は、あざやかである。騒動が、眼に見えるやうだ。さうしてそれから鴎外は、「皆が勧めるから嫌な酒を五六杯飲んだ。」と書いてある。顔をしかめて、ぐいぐい飲んだのであらう。やけ酒に似てゐる。この作品発表の年月は、明治四十二年五月となつてゐる。私たちの生れない頃である。鴎外の年譜を調べてみると、鴎外はこの時、四十八歳である。すでにその二年前の明治四十年、十一月十五日に陸軍々医総監に任じられ、陸軍省医務局長に補されてゐる。その前年の明治三十九年に、功三級に叙さられ、金鵄勲章を授けられ、また勲二等に叙さられ、旭日重光章を授けられてゐるのである。自重しなければならぬ人であつたのに、不良少年じみた新聞記者と、
「何故今遣らないのだ。」
「うむ。遣る。」
などと喧嘩をはじめるとは、よつぽど鴎外も滅茶な勇気のあつた人にちがひない。この格闘に於いては、鴎外の旗色はあまり芳しくなく、もつぱら守勢であつたやうに見えるが、しかし、庭に落ちて左手に傷を負うてからは「僕には、此時始めて攻勢を取らうといふ考が出た。」と書いてあるから、凄い。人がとめなければ、よつぽどやつたに違ひない。腕に覚えのある人でなければ、このやうな張りのある文章は書けない。けれども、これは鴎外の小説である。小説は絵空事と昔からきまつてゐる。ここに書かれてある騒動を、にはかに「事実」として信じるわけには行かない。私は全集の日記の巻を調べてみた。やつぱり在つた。
明治四十二年、二月二日(火)。陰りて風なく、寒からず。(中略)夕に赤坂の八百勘に往く。所謂北斗会とて陸軍省に出入する新聞記者等の会合なり。席上東京朝日新聞記者村山某、小池は愚直なりしに汝は軽薄なりと叫び、予に暴行を加ふ。予村山某と庭の飛石の間に倒れ、左手を傷く。

 

(続く)

 

これに拠つて見ると、かの「懇親会」なる小説は、ほとんど事実そのままと断じても大過ないかと思はれる。私は、おのれの意気地の無い日常をかへりみて、つくづく恥づかしく淋しく思つた。かなわぬまでも、やつてみたらどうだ。お前にも憎い敵が二人や三人あつた筈ではないか。しかるに、お前はいつも泣き寝入りだ。敢然とやつたらどうだ。右の頬を打たれたなら左の頬を、といふのは、あれは勝ち得べき腕力を持つてゐても忍んで左の頬を差出せ、といふ意味のやうであるが、お前の場合は、まるで、へどもどして、どうか右も左も思ふぞんぶん、えへへ、それでお気がすみます事ならどうか、あ、いてえ、痛え、と財布だけは、しつかり握つて、左右の頬をさんざん殴らせてゐる図と似ているではないか。さうして、ひとりで、ぶつぶつ言ひならがら泣き寝入りだ。キリストだつて、いざといふ時には、やつたのだ。「われ地に平和を投ぜんために来れりと思ふな、平和にあらず、反つて剣を投ぜん為に来れり。」とさへ言つてゐるではないか。あるひは剣術の心得のあつた人かも知れない。怒つた時には、縄切を振りまはしてエルサレムの宮の商人たちを打擲したほどの人である。決して、色白の、やさ男ではない。やさ男どころか、或る神学者の説に依ると、筋骨たくましい堂々たる偉丈夫だつたさうではないか。虫も殺さぬ大慈大悲のお釈迦さまだつて、そのお若い頃、耶輸陀羅姫といふ美しいお姫さまをお妃に迎へたいばかりに、恋敵の五百人の若者たちと武技をきそひ、誰も引く事の出来ない剛弓で、七本の多羅樹と鉄の猪を射貫き、めでたく耶輸陀羅姫をお妃にお迎へなさつたとかいふ事も聞いてゐる。七本の多羅樹と鉄の猪を射透すとは、まことに驚くべきお力である。まつたく、それだからこそ、弟子たちも心服したのだ。腕力の強い奴には、どこやら落ちつきがある。と黄村先生もおつしやつた。その落ちつきが、世の人に思慕の心を起こさせるのだ。源氏が今でも人気があるのは、源氏の人たちが武術に於いて、づば抜けて強かつたからである。頼光をはじめ、鎮西八郎、悪源太義平などの武勇に就いては知らぬ人も無いだらうが、あの、八幡太郎義家でも、その風流、人徳、兵法に於いて優れてゐたばかりでなく、やはり男一匹として腕に覚えがあつたから、弓馬の神としてあがめられてゐるのである。弓は天才的であつたやうだ。矢継早の名人で、機関銃のやうに数百本の矢をまたたく間にひゆうひゆうと敵陣に射込み、しかも百発百中、といふと講談のやうになつてしまふが、しかし源氏には、不思議なくらゐ弓馬の天才が続々とあらわはれた事だけは本当である。血統といふものは恐ろしいものである。酒飲みの子供は、たいてい酒飲みである。頼朝だつて、ただ猜疑心の強い、攻略一ぱうの人ではなかつた。平治の乱に破れて一族と共に東国に落ちる途中、当時十三歳の頼朝は馬上どうとうと居眠りをして、ひとり、はぐれた。平治物語に拠ると、「十二月二十七日の夜更方の事なれば、暗さは暗し、先も見えねども、馬に任せて只一騎、心細く落ち給ふ。森山の宿に入り給へば、宿の者共云ひけるは、『今夜馬の足音繁く聞ゆるは、落人にやあるらん。いざ留めん』とて、沙汰人数多出でける中に、源内兵衛真弘と云ふ者、腹巻取つて打ち懸け、長刀持ちて走り出でけるが、佐殿[すけどの]を見奉り、馬の口に取り附き、『落人をば留め申せと、六波羅より仰せ下され給ふ』とて既に抱き下し奉らんとしければ、鬚切の名刀を以て抜打にしとど打たれければ、真弘が真向二つな打ち割られて、のけに倒れて死ににけり。続いて出でける男は、『しれ者かな』とて馬の口に取り附く処を、同じ様に斬り給へば、籠手の覆[おおひ]より打ちて、打ち落とされて退きにけり。その後、近附く者もなければ、云々。」とあつて、未だ十三歳と雖も、その手練の程は思ひやられる。私が十三歳の時には、女中から怪談を聞かされて、二、三夜は、ひとりで便所へ行けなかつた。冗談ではない。実に、どうにも違ひ過ぎる。武人が武術に長じているのは自然の事でもあるが、しかし、文人だつて、鴎外などはやる時には大いにやつた。「僕の震えてゐるのが、わからんか。」などといふ妙な事を口走つてはゐないのである。つかみ合つて庭へ落ちて、それから更に改めて攻勢に転じようとしたのである。漱石だつて銭湯で、無礼な職人をつかまへて、馬鹿野郎!と呶鳴つて、その職人にあやまらせた事があるさうだ。なんでも、その職人が、うつかり水だか湯だかを漱石にひつかけたので、漱石は霹靂の如き一喝を浴びせたのださうである。まつぱだかで呶鳴つたのである。全裸で戦ふのは、よほど腕力に自信のある人でなければ出来る芸当ではない。漱石には、いささか武術の心得があつたのだと断じても、あながち軽忽の罪に当る事がないやうにも思はれる。漱石は、その己の銭湯の逸事を龍之介に語り、龍之介は、おそれをののいて之を世間に公表したやうであるが、龍之介は漱石の晩年の弟子であるから、この銭湯の一件も、漱石がよつぽど、いいとしをしてからの逸事らしい。立派な口髭をはやしてゐたのだ。かの鴎外にしても立派な口髭をはやして軍医総監といふ要職にありながら、やむにやまれず、不良の新聞記者と戦つて共に縁先から落ちたのだ私などは未だ三十歳を少し越えたばかりの群小作家のひとりにすぎない。自重もくそも、あるもんか。なぜ、やらないのだ。実は、からだが少し、などと病人づらをしようたつて駄目だ。むかしの武士は、血を吐きながらでも道場へかよつたものだ。宮本武蔵だつて、病身だつたのだ。自分の非力を補足するために、かの二刀流を案出したとかいふ話さへ聞いてゐる。武蔵の「独行道」を読んだか。剣の名人は、そのまま人生の達人だ。

 

一、世々の道に背くことなし。
二、万づ依怙の心なし。
三、身に楽をたくまず。
四、一生の間欲心なし。
五、我事に於て後悔せず。
六、善悪につき他を妬まず。
七、何の道にも別を悲まず。
八、自他ともに恨みかこつ心なし。
九、恋慕の思なし。
十、物事に数寄好みなし。
十一、居宅に望なし。
十二、身一つに美食を好まず。
十三、旧き道具を所持せず。
十四、我身にとり物を忌むことなし。
十五、兵具は格別、余の道具たしなまず
十六、道にあたつて死を厭わず。
十七、老後財宝所領に心なし。
十八、神仏は尊み神仏を頼まず。
十九、心常に兵法の道を離れず。
男子の規範とはまさにかくの如き心境を言ふのであらう。それに較べて私はどうだらう。お話にも何もならぬ。われながら呆れて、再び日頃の汚濁の心境に落ち込まぬやう、自戒の厳粛の意図を以て左に私の十九箇条を列記しよう。愚者の懺悔だ。神も、賢者も、おゆるし下さい。
一、世々の道は知らぬ。教へられても、へんにてれて、実行せぬ。
二、万づに依怙の心あり。生意気な若い詩人たちを毛嫌ひする事はなはだし。内気な、勉強家の二、三の学生に対してだけは、にこにこする。
三、身の安楽ばかり考へる。一家中に於いて、子供より早く寝て、さうして誰よりもおそく起きる事がある。女房が病気をすると怒る。早くなほらないと承知しないぞ、と脅迫めいた事を口走る。女房に寝込まれると亭主の雑事が多くなる故なり。思索にふけると称して、毛布にくるまつて横たはり、いびきをかいてゐる事あり。
四、慾の深き事、常軌を逸したるところあり。玩具屋の前に立ちて、あれもいや、これもいや、それでは何がいいのだと問はれて、空のお月様を指差す子供と相通ふところあり。大慾は無慾にさも似たり。
五、我、ことごとに後悔す。天魔に魅いられたる者の如し。きつと後悔すると知りながら、ふらりと踏込んで、さらに大いに後悔する。後悔の味も、やめられぬものと見えたり。
六、妬むにはあらねど、いかなるわけか、成功者の悪口を言ふ傾向あり。
七、「サヨナラだけが人生だ」といふ先輩の詩句を口ずさみ酔泣きせし事あり。
八、他を恨めども、自らを恨むこと我より甚だしきはあるまじ。
九、起きてみつ寝てみつ胸中に恋慕の情絶える事無し。されども、すべて淡き空想に終るなり。およそ婦女子にもてざる事、わが右に出づる者はあるまじ。顔面の大きすぎる故か。げせぬ事なり。やむなく我は堅人[かたじん]を装はんとす。
十、数寄好み無からんと欲するも得ざるなり。美酒を好む。濁酒も辞せず。
十一、わが居宅は六畳、四畳半、三畳の三部屋なり。いま一部屋欲しと思はぬわけにもあらず。子供の騒ぎ廻る部屋にて仕事をするはいたく難儀にして、引越さうか、とふつと思ふ事あれども、わが前途の収入も心細ければ、また、無類のおくこふがりの男なれば、すべて沙汰やみとなるなり。一部屋欲しと思ふ心はたしかにあり。居宅に望なき人の心境とはおのづから万里の距離あり。
十二、あながち美食を好むにはあらねど、けふのおかずは?と一個の男子が、台所に向って問を発せし事あると告白す。下品の極なり。慚愧に堪へず。
十三、わが家に旧き道具の一つも無きは、われに売却の悪癖あるが故なり。蔵書の売却の如きは最も頻繁なり。少しでも佳き値にて売りたく、そのねばる事、われながら浅まし。物慾皆無にして、諸道具への愛着の念を断ち切り涼しく過し居れる人と、形はやや相似たれども、その心境の深浅の差は、まさに千尋なり。
十四、わが身にとりて忌むもの多し。犬、蛇、毛虫、このごろのまた蝿のうるさき事よ。ほら吹き、最もきらひ也。
十五、わが家に書画骨董の類の絶無なるは、主人の吝嗇の故なり。お皿一枚に五十円、百円、否、万金をさへ投ずる人の気持は、つひに主人の不可解とするところの如し。某日、この主人は一友を訪れたり。友は中庭の美事なる薔薇数輪を手折りて、手土産に与へんとするを、この主人の固辞して曰く、野菜ならばもらつてもよい。以て全豹を推すべし。かの剣聖が武具の他の一切の道具をしりぞけし一すぢの精進の心と似て非なること明白なり。なほまた、この男には当分武具は禁物なり。気違ひに刃物の譬へもあるなり。何をするかわかつたものに非ず。弱き犬はよく人を噛むものなり。
十六、死は敢へて厭ふところのものに非ず。生き残つた妻子は、ふびんなれども致し方なし。然れども今は、戦死の他の死はゆるされぬ。故に永へて生きて居るなり。この命、今はなんとかしてお国の役に立ちたし。この一箇条、敢へて剣聖にゆづらじと思ふものの、また考へてみると、死にたくない命をも捨てなければならぬところに尊さがあるので、なんでもかんでも死にたくて、うろうろ死場所を捜し廻つてゐるのは自分勝手のわがままで、ああ、この一箇条もやつぱり駄目なり。
十七、老後の財宝所領に心掛けるどころか、目前の日々の暮しに肝胆を砕いてゐる有様で苦笑の他は無いが、けれども、老後あるひは私の死後、家族が困らぬ程度の財産は、あつたはうがよいとひそかに思つてゐる。けれども、財産を遺すなどは私にとつて奇蹟に近い。財産は無くとも、仕事が残つてをれば、なんとかなるんぢやないかしら、などと甘い、あどけない空想をしてゐるんだから之も落第。
十八、苦しい時の神だのみさ。もっとも一生くるしいかも知れないのだから、一生、神仏を忘れないとしても、それだつて神仏を頼むはうだ。剣聖の心境に背馳すること千万なり。
十九、恥づかしながらわが敵は、厨房に有り。之をだまして、怒らせず、以てわが働きの貧しさをごまかさうとするのが、私の兵法の全部である。之と争つて、時われに利あらず、旗を巻いて家を飛び出し、近くの井の頭公園の池畔をひとり逍遥してゐる時の気持の暗さは類が無い。全世界の苦悩をひとりで背負つているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしてゐるのだから話にならない。よろづ、ただ呆れたるより他のことは無しである。

剣聖の書遺した「独行道」と一条づつ引較べて読んでみて下さい。不真面目な酔ひどれ調にも似てゐるが、真理は、笑ひながら語つても真理だ。この愚者のいつはらざる告白も、賢明なる読者諸君に対して、いささかでも反省の資料になつてくれたら幸甚である。幼童のもて遊ぶ伊呂波歌留多にもあるならずや、ひ、人の振り見てわが振り直せ、と。