(巻三十七)かかる代に生まれた上に桜かな(西原文虎)

(巻三十七)かかる代に生まれた上に桜かな(西原文虎)

6月8日木曜日

曇り。当地に梅雨入り宣言が出されたそうである。シトシトと降る程度ならよいがまた豪雨だそうだ。細君は生協に出かけて老夫婦の4日分買い込んだそうだ。

昼飯喰って、一息入れて、コチコチしてから、二ヶ月に一度になった血圧検診に出かけた。看護師さんの測定でも120-80だったから現状では問題ないのだろう。Tシャツ一枚だから血圧測定にしろ聴診にしろ手間取らなくてよろしい。会計のときにコロナ接種の確認をしたが、このクリニックは予約不要だ。筋向かいの薬局へ入り処方箋などを斎藤さんに渡し、里村へ急ぐ。

里村の今日のクルーは小太り兄ちゃんとイケメン兄ちゃん。今日はイカスミサキイカ天ぷら(一撮)というのを頼んだ。歯がしっかりしていないと味わえない。やはり蓮の天ぷらあたりまでだな。焼き物のテイクアウトを待つ間に一杯ひっかけている親爺が二人、カップルが二組。4時前だからまあまあだろう。商売順調のようでお花茶屋に三号店を開いたらしい。

薬局へ戻り薬をいただき、生協に寄って豪雨対策の酒・つまみ・甘味を仕入れて帰宅した。

猫さんは、トモちゃんとコンちゃん。

願い事-涅槃寂滅、ポックリ御陀仏。

今日もお稲荷さんにお願いしておいた。基督様よりも、御釈迦様よりも御狐さまの方が安心してすがれる。人間はやっぱり厭じゃ。

宮本武蔵の訓を読んだが、実際的な訓を読み返してみた。

「浪華俗世の知恵 - 藤本義一」文春文庫 04年版ベスト・エッセイ集 から

傘といふ独りの宇宙梅雨に入る(有松洋子)

「浪華俗世の知恵 - 藤本義一」文春文庫 04年版ベスト・エッセイ集 から

祖父は職人であり、父は大阪商人であった。四代前までは、父方も母方もこの職人と商人の血が半々に流れているのがわかる。

私は商人になるために育てられたが、昭和二十年三月の大阪大空襲で父の営んでいた店は壊滅状態となり、資本なしの腕一本の職人にであった祖父の道を歩んで今日に至ったようだ。

表具師であった祖父はあらゆる遊びと酒をこよなく愛したと幼い時に祖母から聞いている。小唄などが好きだったという。父は文楽好きで、謡曲が好きだった。こういう趣味の違いに職人と商人の差が感じられる。

祖父の記憶は二、三歳ぐらいの時に途絶えるが、なんとも恐しい存在であった。

朝起きて、大きな音をたてて洗顔し、鏡に映った己に向って三度大声で叫ぶのだ。

「オイ!アクマ!」

おい!悪魔!である。祖母の解説で知ったのだが、オは“怒るな”、イは“威張るな”、アは“焦るな”、クは“くさるな”、マは“負けるな”であった。この五項目を毎朝自分にいい聞かせて仕事に入ったのである。この自戒の言葉も大阪職人の知恵だと思う。一度この発祥について調べてみたが、明治の中期ぐらいに大阪のあらゆる商人、職人の仲間うちで発生したらしい。

大阪商人の父は、こっちが小学校に入る直前から一年に二回、元日の朝とか盆の日に正座対面のかたちでいったものだ。

サンズノカワワタルナ。

と。

三途の川といえば死んで渡る川の名称だと知っていたから、人間死んではいけないということかと解釈したら、そうではなかった。

「商人[あきんど]の世界には、三つのやってはいけないベカラズという“ズ”がある。これを三ズという。ゆう憶えて、いつも三唱しろ。金貸サズ。役就カズ。判セズ。わかったか」

どんな親しい人にも金を貸してはいけない。町内とか組合の役に就くと自分の時間がなくなる。判(保証人の判)をしてはいけないのだという。

「実印を捺す時は朱肉を付けてから、印盤の方を自分の方に向け、大丈夫か、大丈夫か、大丈夫かと三回唱えろ。そして、捺す時は、捺印する紙の下にこの一枚を敷いて捺し、朱肉が乾くまで雑談して待て」

といって、厚さ七、八ミリのフエルトの板(五センチ四方)を見せたものだ。朱肉が乾いていない場合は、硫酸紙などで朱肉を別の紙に移し、盗印、欺[だま]し印が可能だから気を付けろといい、フエルト板は敷くことによって、どの紙質でも本人が捺印した証拠になるからだといったものだ。これは現代でも十分に活用できる自衛の策といえるだろう。

この他に、中学生頃までに父から執拗にいわれたのは、

「二つの掛算だけは絶対にするな。人生の一番大切な“信用”を失うことになる」

という言葉である。

二つの“掛算”とは“心配をかけること”と“迷惑をかけること”という意味だ。

祖父が叫んでいた時は五十代後半だったが、父が静かな口調でいったのは三十代後半だったことになる。

特に金銭感覚が江戸と浪華で大きく違うというのを知った。

-金は天下の回りもの。

という諺を、江戸町民は安易に解釈しているのだという。

「金が自分の懐から出て行ったなら、天下という世の中をぐるッと回ってまた自分の懐に戻ってくるという阿呆な考えをするのが江戸の人間や。- 金は天下の回りもの - という大阪の解釈は、金というものは常に世の中を凄じい勢いで回っているものやから、絶対に目を離すなということや。人間にはチャンスというものが三回あるから、ここぞと思った時に手を伸ばして掴まんことには金は逃げてしまうというわけや。そして、人間、一生の間に三度のチャンスがあると考えよ」

というもので、江戸では金のことをオアシというが、これは“お悪[あし]”という軽蔑視した呼び方で、浪華でのオアシは“お足”という走りまわる貨幣を意味しているのだといったものだ。

幼年期から少年期にかけて埋め込まれた知恵、特に金銭に関する知恵は容易に消えるものではない。やはり、商人の町大阪では、金銭に関する知恵が多い。

-貯めるのは金、使うのは銭[ぜに]。

同じ金額であっても、貯める時と使う時は呼称を変えろというのである。

「儲けるという字をよく見ろ。タテに二つ割ったなら“信”と“者”となる。これは信じ合う同士に真の儲けがあるということや。もし、そうでなかったなら、儲けるという字をタテに三つに割って考えろ。“イ[にんべん]”つまり自分や。次に“言[げん]”という言葉な。それに“者”という他人、客やな。儲けようと思う資本[もとで]の少ない商人は、自分と客の間に巧みに言葉を挟んだ奴が勝つということや」

凄じいまでの解釈だと思うが、これは真理であると大阪人の私は思うのだ。

といって、金を貯めることばかり考えている“吝[けち]”は商人仲間では爪はじきされるからこの点は十分に考えて行動した方がいいというのも父や父の仲間から何度も聞かされた。

また、

- 死んで花実[はなみ]が咲く。

という江戸の言葉を大阪人は昔から軽蔑していたゆうだ。切腹、殉死の美学は一切認めない風潮がある。

- 死んで花実が咲くのなら、墓所[はかしょ]はいつも花盛り。

などと付け加えて揶揄した。それでいて働くという言葉にも“傍[はた]”を“楽[らく]”にして生命を縮めても意味がないではないかという意見を持つ。

江戸時代の大阪の落首に、

世の中で寝るほど楽はなかりきに、知らぬ阿呆は起きて働く。

というのがあるのを見てもわかる。なにも他人のためにあくせく働くこともないではないかという気分で作られたものだろう。

働くのは傍[はた]を楽[らく]にする犠牲的精神で仕事に励むことだという解釈は、どうも後年になって仏典等の中から引用されたものらしい。

また、

- 損して得とれ。

これは得(利益)ばかりを考えて商いをしていると必ず損をするぞという諌[いさ]めの言葉であり、損を常に考えながら地道に商いをしていくと得に繋がるという意味である。車でいえば得はアクセルであり、損はブレーキというわけだ。高速道路を疾走している最中に、どちらが故障すれば恐しいかを考えろという箴言[しんげん]と思えばいい。ブレーキが効かなくなると激突するしかない。 

ところが、江戸期後半には、この - 損して得とれ - が 損して徳とれ - というのが正しいという説が生れる。自己犠牲を覚悟で徳行を積むのが人間の道だという。これは、おそらく道学者の誰かが無理に語呂合わせをしたのだろう。現実な生きる商人がこんなことを考えるわけがない。

私は中学一年の夏休みに終戦を迎えた。父は空襲で私財を失い、強度の神経衰弱(現在のうつ病)と栄養失調の果てに食が細くなり(拒食症)、そして肺病(結核)に罹[かか]った。精神的にも肉体的にも物質的にもボロボロの四十五歳だった。大阪府下の結核療養所の隔離病棟に入ったため、一年間は面会出来なかった。体重は十貫目(三十七・五キロ)で、私は八貫目(三十キロ)だった。生活のために母は衣類を食糧に換え、私は米軍キャンプと闇市をかけめぐり、それなりの収入を得て、毛布や砂糖を療養所に届けたが、隔離されている父とは面会が許されなかった。一度だけ看護婦さんから病床の父の伝言を聞いた記憶がある。

「人間死ぬ時は死ぬ。が、戦争が終ったから殺されることはない。死ぬのは納得出来るが殺されるのは納得出来ん死に方や」

といった意味のことだった。闇市で危い取引を手伝っているのを知っていたらしい。殺される状況はなるべく避けろといったのだ。クスリでも殺されるといっていたから、ヒロポン(覚せい剤)に手を出すなといっているのだと解釈した。

二年目に開放病棟に移った父と面会した。

大部屋の奥の窓際にいた父が手招きするので近付くと、急に軋[きし]むベッドに正座し、両手をついて息子に頭を下げた。瞬間、神経衰弱がさらに深くなったのかと絶望的になった。が、そうではなかった。スマン、スマンと小さな声で息子に詫び、こちらの頭を指した。

「そのお前の頭は金庫や。大学まで行ってくれ。授業料の安い、自転車で通学出来る大学へ行って、その頭という金庫の中に学問という財産を入れ、自由に運用して生きてくれ」

こういった内容のことをポツリポツリと低声[こごえ]でいった。五、六分を要したように思う。

「地位も名誉も財産も失った。従って、お前に失うものはなにもない」

帰り道、この言葉を幾度も頭の中で繰り返した。相当考えて纏めたものだろうと中学二年の頭でもわかった。

父のいった通りの公立大学に入り、父に報告すると、

「将来なにになるか考えてこい。十代では一日で考えられるものが二十代では一カ月かかり、三十代では一年かかり、四十代では五年かかり、五十代では十年かかって六十になる」

この計算方法は現在もどこからきたのかわからないが、決断を早く若い裡[うち]にしろという名言だと思う。

中学校の社会科教師の資格を取得したが、日本の雇用問題に疑問をもって、自分の好きな映画界の徒弟制度に入るといった時、

「うーん、中学の先生から映画の下働きか。どっちも資本[もとで]なしやから好きな方をやれ。人間、あの時にやっておいたらと悔むのが一番下手な人生や」 

といってくれたのである。

そこで、どちらかというと祖父のDNAに作用されて現在に至っている。