「我老いたり - 正宗白鳥」お金本 から

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金の多寡[たか]によつて人間の価値は極まらぬとは教養ある人士の定説となつてゐるやうだが、その定説も頼りないので、事実に於いて、多くの場合、金次第で人間価値は極まるのである。かつて実業界の快男児福澤桃介の人間観金銭観はさういふ事であつたらしい。どうして福澤桃介なんかを、不意に思ひ出したかと云ふと、私は、数十年前、「改造」の懸賞募集原稿を審査してゐた時、歌人杉浦みどり子の小説に、題材の面白さを感じた。これは、当選しなかつたが、私としては、福澤桃介にまちがひない人物が作中に叙せられてゐるのに心惹かれたのであつた。桃介はこの女作者の実兄だか義兄だか、何かの縁続きで、親しかったらしく、その桃介らしい人が、人間の価値は金銭の多寡によつて極まるので、処世態度は、これを規準とすべしと、女作者みどり子を戒めるのだが、きびきびしてゐて、朗らかであり、自信たつぷりであり、その所説に私の心が惹かれたのであつた。
当時の記憶によると、桃介は、百万円の金持よりも二百万円の金持の方が、人間的価値が二倍あり、十万円の金持は、百万円所有者の十分の一の人間価値しかないと断定してゐたらしい。かういふ人世観は簡単明瞭であり、案外真に徹してゐるのではないかと、あの時、小説を読んで私はさう思つてゐたらしい。だから数十年後の今、ふと記憶から浮べられるのだ。当の作者は無論その人世観に服従してゐなかつたやうだ。文学者の意気はその服従しないところに存在するのか。
私など、子供の時、「分限者」と云ふと、一図に尊敬してゐたものだ。今でもその気持が残つてゐて、金持に対すると蹴押されるやうな気がするのである。作品そのものは読んでゐなくつても、その作家の原稿料は一枚一万円であるとか、何十万部も本が売れたとか云ふと、その人に敬意を払ふやうになるのである。人間の価値をそんな事で極めるのは不都合であると思ひながら、無意識のうちにもさうなつてゐるのである。私でさえさうだから他の多数者はさうにちがひあるまい。
福澤桃介の言ひ種ぢやないが、痩我慢張つたつて、金は有れば有るほどいいんだよ。
私などは、少年時代から勤倹貯蓄を心がけてゐたが、職業柄、金はいくらも溜らなかった。それでも、二度自費で外国旅行をして、二度とも旅費をあまして帰つたくらゐだから、清貧の境地にゐた訳ではなかつたと云へようか。
戦後から今日まで連綿とつづいてゐる文壇成金時代にこそ、福澤桃介式に怪腕を揮つたなら、現代の金持型の生活振りの実現される身分になつたのであらうが、私は詰まりは天与の才能のないために、運は取りにがしたとも云へようが、そんな大それた事を考へるのは虫がよ過ぎるので、私などはほそぼそとしてゐても、長い文壇生活を無事に過ごした幸福人の一人である。
「あなたは一億円も持つていますか。地味な人は案外金が溜つてゐる筈ですよ。」と、先日或る人がいろいろな文壇的雑談のうちに私に云つた。文壇に於いても、人はよく人の懐を索つて見たがるのである。流行作家の法外な収入などは、よく噂の種になるが、作品そのものの値打ちよりも、それから得た金の方に興味が寄せられるのではあるまいか。『挽歌』とかについても、作品の鑑賞よりも、売れ行き五十万部突破といふ事が人心に与ふる刺激となるらしい。
私などの収入は自分よりも税務署がよく知つてゐる。戦前には、税務署の見込みで課税されてゐたのだが、戦後は申告制度になり、税務署の方でも漏れなく調査するやうになつた。私の収入のいかにすくな[難漢字]いかは、私より税務署の方によく分かつてゐるのである。そして、私の収入のあまりにすくないのを不思議がつてゐるかも知れない。文化功労賞の年金と、雑文とだけが重な収入で、三十一年度の実収入は年額壱百万円余である。私が一生稼いで獲得した程度のものを、うまく当てた新進の少年少女は、三月半年の間に、一度期に取り込むことになるのである。しかし、さう云ふ事を羨ましく嫉ましく感ずるほどの気力もなくなった。