(巻三十七)春眠をむさぼる若さ我にあり(鈴木清三)

6月16日金曜日

(巻三十七)春眠をむさぼる若さ我にあり(鈴木清三)

少なくとも朝は晴れ。朝家事は掃除機がけ。台所のマットを通路で叩く。埃が出て、下の駐輪場へ落ちていく。

For dust you are: and unto dust you shall return.

義妹から電話が入り、旦那が私と同病(尿管結石)になったらしく相談を受けた。町医者に行っても検査機材が不十分だから病院に行ってはっきりさせた方がよいと、当たり前の助言を致し、平成立石病院での二度の体験談を語る。私としては大沢院長先生をはじめ、下町っぽい看護師さんたちを含めてよろしいと思っているが、彼の家では舅が入院した際の扱いに不満があったらしい。

どうも病院に行きたがらない旦那を行かせる“ネタ”に使われるようだ。

昼飯喰って、一息入れて、コチコチしてから軽く散歩に出かけた。遊んでくれたのはトモちゃんだけ。クロちゃん不在。生協へ入り3割引きになっていた鯵のお寿司(5個)とノンアルコールを買い、桜通りのベンチでピクニックをして3時半前にゴミ集積場にゴミと缶を持ち込み、帰宅。

郵便受けを見て来いと云われて取りに行くと、区民税、国民健康保険、介護保健、と取立通知が入っていた。つい先日年金の改定通知がきて「まっ、こんなもんか?」と納得していたが、剥がし取る方は所得の増加がないのに上がっていた。国保は一万円近く上がっていたが、内訳をみると、「医療分保険料」は僅かながら下がっているのに「支援金分保険料」がその分上がっている。まっ、文句は言えない立場だなあ。

願い事-ポックリ御陀仏。

病気で長生きが最悪。それよりは前期者のうちにポックリ御陀仏がよい。今日もお稲荷さんにはそのようにお願いした。

で、

「病院にはなるべく行かない - 池田清彦新潮文庫  他人と深く関わらずに生きるには から

を読み返してみた。

転がつたとこに住みつく石一つ(大石鶴子)

「病院にはなるべく行かない - 池田清彦新潮文庫  他人と深く関わらずに生きるには から

現代人は体の具合が悪くなったら病院に行くのが当たり前と思っているようだが、ケガと感染症以外の病気は、病院に行ったからといって治るとは限らないし、かえってこじれてしまう場合もある。はっきり言って、病院に行こうと行くまいと、治るものは治るし、最新の医療を受けても万金を積んでも、治らないものは、治らない。

たとえば、鼻の奥がむずむずしてクシャミが出る。しばらくすると熱が出てくる。典型的な風邪である。病院へ行かなくても、薬を飲まなくても、安静にしていればほぼ百パーセント治る。医者に診てもらうのは、時間とお金のムダである。それでも必ず病院に行く人がいる。病院に行けば、必ず薬をくれる。やっぱり、薬を飲まなければ治らないんだ、と思ったら大間違いである。薬など飲まなくても治るとわかっていても、医者は薬を出すのである。薬を出さなければ、もうからないからである。もう少し医者寄りの言い方をすれば、薬を出さなければ病院が潰れてしまう。

薬というのは毒であるから、飲まないにこしたことはない。一昔前の良心的な町医者の中には、薬は飲まなくても大丈夫ですよ、と言って診察だけして帰してくれる人もいた。しかし、今のシステムではこういうやり方ではもうからない。診断だけして患者を安心させても医療費が取れないからだ。検査を沢山して薬も沢山出さなければ、もうからないようにできているのだ。飲む必要のない薬を飲めば体に悪い。だから、どうでもよい病気で医者に行くのは、時間と金と体の三つも損していることになる。

現代人はなぜこんなに病院が好きなのか。それは子供の時から、健康は正常でかけねなしの善であり、病気は異常で悪であると教えられるからである。どんなささいな異常でも直ちに治して正常にならないと気がすまない。かなりの人は、かなりの人はこういった健康原理教の信者になっているのではないかと私は思う。人間の体は自然物であるから、常に同じ状態のままコントロールできるわけではない。若い時は元気がいいが、年をとるにつれて体のあちこちにガタが来て、最後はにっちもさっちもいかなくなって死んでしまう。七十歳や八十歳になって、具合の悪い所は全くなく、二十歳や三十歳の時と同じように元気な人がいたとしたら、その人は健康かもしれないが異常であろう。健康と正常はパラレルではない。

風邪ような一過性の病気は、発病から治るまで、あるパターンのプロセスをとる。具合が悪い時に医者に行かずに家でじっと寝ていると、病気の経過が自分なりにわかる。何度か同じような経験をすれば、この具合の悪さは、寝てさえいれば治ると確信することができる。即病院に直行したり、病院に行かないまでもすぐに薬を飲んだりすると、病気の自然の経過を自分で経験することができない。ついには、病院に行ったり、薬を飲んだりしないと不安になってくる。幼稚園や小学校の時から国家のパターナリズム(おせっかい主義)と、医療資本にだまされて、健康強迫症にさせられてしまったのだ。

自分の体と一番長くつき合っているのはじぶんであり、自分の体のことは自分が一番よくわかっているはずなのに、自分の判断や感性を信じないで、医者の言うことを無闇に信じるのはおろかであろう。死ぬか生きるかの瀬戸際になった時、あるいは手術するかしないかの決断をせまられた時、自分のことは結局自分で決めるしかない。そのためにも、普段から自分の体を他人まかせにしないで、自分で判断するクセをつけておいた方がよいと思う。

国家というのは人々を管理したくて仕方がないらしい。国民に十一ケタの背番号を付けようなどという発想は、国家が好コントロール装置であるなによりの証拠である。この装置は病気の人を病院でコントロールするだけではあきたらずに、健康な人まで病院に送り込んでコントロールしようとしている。医療資本にとっても、もうけるチャンスが拡大するわけだから、渡りに舟である。かくして、予防医学あるいは健康診断という名の搾取が行われることになる。

自分では何の異常も感じないのに、健康診断に行く。四十歳もすぎれば、大抵の人は体にガタが来ている。血液検査をして、肺のレントゲンを撮って、胃カメラ飲んで、大腸がんの検査をして、内蔵のエコー検査をして、あげくは脳ドックまでやれば、すべて何でもありません、という人はむしろ稀であろう。多くの人はどこか悪いと言われ、コレステロール値を下げる薬をもらったり、血圧を下げる薬をもらったりして、時間とお金を使わされることになる。自覚症状がないのに、薬をのまされて不思議だとは思わないのだろうか。

体の具合が悪くて、医者に行ってそう言われたのならまだ話はわかる。何でもないのに検査の値が正常値より少しずれているからといって、一喜一憂する神経が私にはわからない。正常値というのはあくまで人々の平均を基にした値なのである。あなたにとっての最良の値であるとは限らない。コレステロール値が少々高くても長生きする人はいるし、正常値でも早死にする人もいる。前者では少々高いコレステロール値が、その人にとっての最良値なのかもしれないのである。無理にコレステロールを下げる薬を飲まされたら、かえって早死にするかもしれないのだ。検査データよりも自分の体の内部の声を聞いた方がよいのだ。だから、健康だと思っているうちは、わざわざ検査などする必要はないのである。

医者は酒はほどほどに、タバコは吸うなと言うけれども、それも余計なお世話ではないか。酒やタバコが体に良いか悪いかは、個々人によって異なると私は思う。毎日、酒もタバコもやって、九十五歳まで生きた人を私は知っている。この人が、酒もタバコもやらずに清く正しい生活をしていたとして、百歳まで生きただろうか。ストレスがたまって、かえって早死にしたんじゃなかろうか、と私は思う。もちろん、酒やタバコをやったばかりに早死にした人は多いだろう。実際、こっちの方が多いに違いないが、あくまでそれは平均の話なのだ。あなたに当てはまるかどうかはあなたが考える他はない。

私は、酒は毎日飲む、酒がうまいうちは毎日飲んでも大丈夫だろうと思っている。時々いきなりまずくなる時がある。体が飲むのをやめろ、と言っているのだと思って、そういう時は、それ以上飲まない。パーティはめんどうくさいので余り出席しないが、酒がまずい時は人にすすめられても、もちろん飲まない。二十代の頃はタバコをムチャクチャ吸った。一日九十本吸ってたこともあった。ある時、ひどい風邪をひいて物理的にタバコが吸えなくなった。タバコを吸うと喘息の発作が起きるのだ。それは仕方がないのでしばらく吸わなかった。風邪が治ってみるとタバコを吸わないのは妙に気持ちがいい。それで、ぷっつりやめてしまった。私の体にタバコは合わないと悟ったのである。タバコを吸い続けていたら、今頃は鬼籍の人に違いないと思う。酒やタバコが体に悪いかについて、一般論は通用しない。自分の体に聞いてみる他はない。

私はがん検診も受けない。がんが早期発見されれば命が助かるではないか、と思う人がいるだろうが、どうやらそれはインチキらしい。がん検診を受けても受けなくても、がんの死亡率に変わりはないのである。ということは検診で発見されても、症状が出て病院に行ってから見つかっても、命に別状のない良性のがんは治り、悪性のがんは早期発見されても治らないということなのだ。胃の調子が悪くもないのに検診に行って、早期発見されてよかったですね、と言われて、命に別状がないのに胃を取られ、おまけにお金も沢山取られ、体の調子は最悪で、命が助かってよかったと医者に感謝しているのは、マゾでなければバカである。

何でもないのに胃カメラを飲んで、食道に穴が開いて死にそうになった人もいるのである。大腸に入れられたバリウムがうまく排出されずに死んだ人もいる。何でもないのにがん検診を受けるのは、血液検査を受けるよりも、はるかにバカである。体の調子が良い時に、何でわざわざ医者に行く必要があるのか。職場などでがん検診を受けないと色々とめんどうな人もいるかもしれないが、そういう時はがん検診を受けたくないとはっきり言うか、適当なウソをついてゴマかそう。無理に健康診断やがん検診を受けさせようという方が理不尽なのだから、ウソをつくことにうしろめたさを感じる必要は全くない。

さて、それでもどうしても具合が悪い時は医者に行くのもやむを得ない。どんなに具合が悪くても、たとえ死んでも病院には行かない(死んで行くのは病院ではなく火葬場か)というのは上品でカッコいいけでも、耐えられない苦しみや痛みは、和らげてもらえるものならばもらいたい、と少なくとも私ならば思うだろう。だからどうしても具合が悪ければ、病院に行く他はない。

問題はそこからだ。病院に行っても医者まかせにはしないこと。痛みや苦しみを緩和してもらうことを最優先して、その後のことはゆっくり考えればよい。患者はお客様で医者はサービス業なのだ、ということを頭の隅に入れておこう。医者と敵対しろということではない。自分の治療方針について納得のいく説明をしてくれる医者でなければ、信用しない方がよい。病状が一段落したら、別の医者の意見も聞いてみよう。

有無を言わせずに手術をすすめる医者は警戒した方がよいかもしれない。特にがんの手術はよく考えてからした方がよいと思う。手術の後遺症に苦しんだまま一生を終わってしまう例がとても多いからだ。がんだって手術をしなければ、治らないにしても苦しむことは余りないかもしれない。転移がんは基本的に治らないのだから、無理に手術を受けるのは苦しみを増すばかりですすめられない。特に八十歳を過ぎて手術をするのはやめた方がよい。八十歳まで生きたのだから、余りくるしまないで死ねれば本望だと思った方がよい。

もちろん、あれやこれやは全部私の個人的な意見である。あなたにはあなたの考えがあってよい。ただ、人生の最期ぐらいは自分で決めた方がよいのではないかと思うだけだ。医者の言う通りにして、後で後悔するのはバカである。どうせ死ぬのだから、少々わがままでもいいのである。