(巻三十七)短日や足より暮るるバスのりば(岡尚)

6月15日木曜日

(巻三十七)短日や足より暮るるバスのりば(岡尚)

曇り。朝家事はなし。空模様を心配しながら細君は美容室に出かけていった。白髪を気にしているが髪の毛は豊かにある。男の禿は笑いを誘うが女の薄毛は哀れを誘う。コテコテ染めてくるが無いよりはいいか。毛と云えば、例によって鬼の居ぬ間にAV鑑賞いたした。洋ピンではかなりクラシックな作品でもそうなのだが、日本のAVも麦の穂を刈るようになってきた。いつの頃からだろう。

陰[ほと]に生[な]る麦尊[とおと]けれ青山河(佐藤鬼房)

昼飯は例によってカップ麺(餅入りカレーうどん)とパック赤飯。

細君は雨に降られることなく1時前に弁当と牛コマを買って帰宅。

昼飯のあと、一息入れて、雨の降りだす前にバナナを買いに生協へ。戻ってきたら雨が降りだした。

願い事-ポックリ御陀仏。

涅槃寂滅は凡夫には高望みと解ったので即死に絞ることにした。もう一つの高望みについても読むだけ。

で、

極楽往生 - 野坂昭如野坂昭如リターンズ2エロトピア から

を読み返してみた。

春風や凡夫の墓の御影石(岸本尚毅)

極楽往生 - 野坂昭如野坂昭如リターンズ2エロトピア から

何故、人間は長生きをしたいかという質問に、万人の納得できる答えは、ないのだそうで、いろいろ考えても行きつく先は、生きていたいからだというような、しごく当たり前の結論になってしまう。

ある医学者の説によると、長生きしたいのは、死ぬ時の苦しみの少しでも軽やかなことをねがってであるといい、つまり、老衰という状態で死を迎えれば、ぼけているから、恐怖感も少い。死後の世界に怯えるよりも、死ぬ時の、こればかりは想像のつかない断末魔を怖がるのが、凡人だろうから、この説明はいくらか納得がいく。

ねむるが如き大往生を、誰しもねがっているのだろうけれど、只今のところ三大死病である。心臓病、脳溢血、癌のうち、いちばんきらわれているのが癌。たいていの人は、脳溢血でころりといくことをねがい、だがこれは、いわゆる中風の状態で何年も長らえることが、よくあるから、いささか具合がわるい。心臓も勝負は早いけれど、一度の発作でカタがつけばともかく、生命とりとめたのはいいにしろ再発に怯え、しかもこの臓器だけは、そのうごきがはっきり自覚できるし、これが止まればすなわちオロクジと、誰だって知っている。だから、少しの変調にも心底怯え、恐怖に押しひしがれ、一種の廃人となることがあって、やはりうまくない。

ぼくは年がまだ若いから、勝手なことをいっているようだけど、血圧は高いし、左心室にブロックがみとめられ、一日ウイスキー一本のむから、そして、近頃、三十代での三大死病発生率は高まるばかりで、けっこう怖ろしがっているのだが、これで、腹上死という奴はいかなものであろうか。

営みにおいて、男性の消耗するエネルギーは、四百米疾走とか、五キロ★米競歩に匹敵する、などといわれ、すると、万歩メーターぶるさげてのマンポ運動より、ポをコにかえたって同じこと。とにかくポンコツのハートかかえて、駄馬に鞭打てば、死に至ることも、むしろ当然と素人にもわかる。もし、腹上死が、伝えられるように、しごく極楽なのであれば、せっせと営みを行うことで、死の恐怖から逃避も可能なわけだが、これも、よくきいてみると、そう楽チンではないようだ。

祇園の老妓の話では「なんやしらん、シューッとしぼみはってな、どないしたんやおもたら、ウーンうなって、どさっと重なりやしたんえ、うち、ほんまびっくりしてもた」のだそうで、シューッやら、どさっと重くなるあたり、実感がないでもないが、医者にきくと、それはあり得ないという。

老妓の相手は、多分、心臓病だったのだろうが、その発作の前兆は、たとえば下腹部に拡散する鋭い痛みや、背中に釘を打たれる如き苦しみ、さらに脱力感、この上ないファンが重なって、とうてう腹上にはとどまり得ず、まず落馬は必至。ところが、これも医者の話なのだが、女房ならともかく、芸者相手では、男の持病を知らないから、きっと「どないしはったん、いややわ、うちまだどっせ」なとはなれた男の躯をまさぐり、うなっるのを、ごま化しと考えて、小突いたりしたかも知れぬ、そのため死期を早めたのではないかという。いやはや、怖ろしいことで、こっちはこの世の終りと、もがき苦しむところを、恨みがましい女の手に、ペニスひっつかまれ、しごき立てられるなど、まさに地獄であろう。危い向きは、あらかじめ敵娼[あいかた]につげておいた方がいい。

実際は、むしろ営みの後、三十分か一時間後に発作を起すことがほとんどで、やれやれと汗をふき、枕もとの水など含んで、相手が女房なら、これで当分はヒステリー起さないだろうかとか、情婦なら、どうも少し長くつづきすぎた、いい加減に切れようか、またゆきずりの浮気ならば、まさかヒモにおどかされはしまいかななど、少々反省したりする。正にその時、ドカーンと見舞われることが多い。そして、これは、通常の発作とかわりないから、極楽でもなんでもない。そりゃまあ、いざ、これからという時におそわれるよりは、いちおうなすべきことをなした後だから、思い残すことは少いにしても、苦しみは同じ。ある程度の年齢になったら、営みの後しばらくは、死刑の判決を待つように、怯えているのが当然で、女性もそれにふさわしい準備と覚悟をもって欲しいものである。

血圧にしても、営みの際は三十ミリから八十ミリの上昇がみられるといい、しかし、これが徐々であれば、そう危険はない、すなわち前の戯れなど入念に行えば、血管のパチンとはじける心配は少いそうで、やみくもにはやった場合、たとえば、老人が思いがけずに少女など得ていきり立つと、たいへん危いし、なれきった女房との間ではまことに少いのだそうだ。

この発作は、一説によると、脳の血管が破れて、なまあったかい血液がじわっと灰色の脳味噌ににじむ感覚があり、つれてふわっと躯のうき上る感じ、やがて視界がせばまり後はわからぬ。つまり、これでよみがえらなければ、一種の安楽死にちがいなく、老人が、よく若い娘にちょっかい出したがるのは、あるいはこの死にざまに対する願望がはたらいているのかも知れぬ。この場合、ペニスはしばらく直立したままというから、相手がベテランだったりした時、気づかずに中気の躯を、なおむさぼりつづけて、これはあるいは何よりの供養か。

いずれにしても、腹上死はあっても腹下死というのはなくて、女性はシヌシヌと口先きばかりであり、カマキリのみならず、男というものは、常に死と背中合せで性の営みを行っているのだ。これはまた男の特権といえるだろう。いずれさまもまだ死ぬなんぞ先きの話と考えていたって、心の奥底では、夜半の嵐の吹かぬともがな、またこの冷酷な現実を認識すれば、あだしが原におく霜の一足ごとに消えていく怖れがあり、だからこそその抽送の一つずつに、生命の充実感があるのではないか。