(巻三十七)冬晴やスマホで潰す待ち時間(外城より子)

6月22日木曜日

(巻三十七)冬晴やスマホで潰す待ち時間(外城より子)

雨。9時頃の雨は静かな五月雨。朝家事は掃き掃除。昼飯喰って、一息入れて、少しコチコチしてから6回目の接種に出かけた。細君が接種したと同じクリニックだが雨模様の午後なので空いていた。三人目でチクッとやって頂いきカロナールも頂けた。4回目5回目と39度くらいまでの発熱副作用が出たが果たして今回は?である。

六回目夏のピークに合わせけり(拙句)

願い事-ポックリ御陀仏。

顔本の「知り合いかも」に過日他界した境さんが現れた。やはり、跡形を消して逝かねば。

で、今日は

「歴史のワクチン - 嵐山光三郎ちくま文庫「世間」心得帖 から

を読み返してみた。

雨蛙めんどうくさき余生かな(永田耕衣)

「歴史のワクチン - 嵐山光三郎ちくま文庫「世間」心得帖 から

私のような老骨ははやばやと二回のワクチン接種を終えたが、新型コロナ攻撃隊は、第三波左ジャブ、第四波右フック、デルタ株の第五波アッパーカットがゴツーンと来た。そこでノックダウン。怖い。

磯田道史著『感染症の日本史』(文春新書)は「日記」に目をつけたところが斬新でリアルである。令和時代の歴史研究家としてイソダという凄玉が登場した。『原敬日記』が克明につづるパンデミックと政局。志賀直哉が書いたインフルエンザ小説まで登場する。百年前のスペイン風邪は三波までであった。いまは五波。

第一波は大正七(一九一八)年春から夏(私と同居する老母ヨシ子さんは大正六年生まれ)。原はこの年九月二十九日に第十九代内閣総理大臣になったが、第二波の「流行感冒」にかかった。第一波(「春の先触れ」)は大正七年五月から七月まで、第二波(「前流行」)は大正七年十月から翌大正八年五月まで、第三波(「後流行」)は大正八年十二月から翌九(一九一〇)年五月まで。

原は元老山縣有朋[やまがたありとも]と密接な関係を保ちながら政権を運営していった。四十歳のころから見事な白髪となり「白頭首相」とも呼ばれ、長身の美丈夫だったが、スペイン風邪にもめげずモーレツに働いた。連日の会議、晩餐会に出席してスペイン風邪にかかり、天皇に会うことができなくなった。その様子が『原敬日記』に出てくる。

明治八年から始まった日記は、激務のなか、死の大正十年十一月四日まで書かれている。そんななか、大正天皇が風邪をひいた、という記述がある。山縣有朋も風邪にかかって重体。時の皇太子(後の昭和天皇)も秩父宮○○親王三笠宮○○親王もインフルエンザにかかった。ウイルスは相手を選ばない。大正七(一九一八)年十月二十七日の日展で皇太子に拝謁した土方久元がかかって十一月四日に他界した。『昭和天皇実録』には、インフルエンザを発症した皇太子のもとに十一月三日、先週、日展の会場で会ったばかりの土方が重体という報せがきた。これは怖い。土方は土佐藩出身の勤王党に参加して宮内大臣を務めた。皇太子とは、近しい人であった。

突然の悪寒と急激な発熱。宮中クラスターがおこった。秩父宮大正九年スペイン風邪で倒れた。このとき十七歳でしたが、医療スタッフががんばって一命をとりとめた。その後、陸軍士官学校で軍人としての経歴を重ね、昭和二十八(一九五三)年、五十歳で薨去された。遺言で「自分の遺体を解剖してほしい」と希望された。若くして病を得た自分のケースを医学研究に役立ててほしいという思いがあった。

志賀直哉は雑誌「白樺」にインフルエンザ小説『流行感冒』を書いた。大正八年三月(志賀三十六歳)は、スペイン風邪「前流行」のときでその三年前に長女○子が出生直後死去し、二年前には次女留女子が生まれた。その年には長男直康が出生直後死去した。

千葉県の我孫子に住んでいた志賀親子をスペイン風邪が襲うなか、家の女中が夜芝居へ行ってしまう。嘘をついて出かけてしまった。そうこうするうち、志賀自身がインフルエンザにかかった。家にきた植木屋にうつされた。

四〇度近い熱が出て、腰や足がだるくなった。“自粛警察”化した自分を反省して書いた。志賀は父親との和解が成立して長編『暗夜行路』を書く直前であった。泰然自若の志賀直哉も、スペイン風邪にはなすすべがなかったが、追いつめられた窮状は志賀が生き返るきっかけとなった。さすが「小説の神様」。

横尾忠則作品のY字路(ヨコオのY)シリーズ一五〇点には志賀直哉の「暗夜行路」(N市作品群)が登場する(N市は横尾さんの故郷である兵庫県西脇市)。二叉路は人間が生きていくうえの選択肢である。右か左か、さてどちらの世間に足を踏みいれるか。

私は、十九歳のとき、渋谷常磐松の坂道で、白髭の背高のっぽの老人とすれ違った。あ、シガナオヤだ……と気がついたときは、陽炎のように影は遠ざかった。そのとき志賀は七十八歳。志賀は昭和四十六年十月二十一日、八十八歳で死去し、青山霊園志賀一族の墓で眠っている。大正時代の文士は時代と向きあい、自己を客観視していた。

内田百○は『実説艸平記[そうへいき]』でスペイン風邪にかかったことを書いている。百○は、烏森の眼鏡屋で金縁眼鏡を買ったときにうつされた。眼鏡屋の主人が〈はあはあ〉いって、スペイン風邪かなと思ったら、果たしてその翌日から熱が出て、家中の者がみな感染して大変なことになった。百○も己の無残を見つめている。

この二作に共通するのはスペイン風邪を怖がりつつ、客観的に観察している気配で、そのせめぎあいに生きていくせつなさがある。ウイルスへの愛憎相半ばする呼吸のようなものが題材となった。

宮沢賢治最愛の妹トシは大正十一年十一月二十七日、みぞれ降る夜、二十四歳の生涯を閉じた。トシは日本女子大在学中の大正七年、スペイン風邪を発病した。賢治は翌年三月まで看病して、花巻の実家に報告していた。その手紙で、腸チフスと「誤診」されていたことが察せられる。

妹トシが死んだとき、賢治は押し入れに首をつっこんで慟哭した。それだ「永訣の朝」という詩になった。「けふのうちに とほくへいってしまうわたくしのいもうとよ……」。妹の言葉にからんで、賢治の内部の心の点滅をうたった。

歌人で医師であった斎藤茂吉が、長崎医学専門学校教授になったとき、スペイン風邪に感染した。息子の茂太さんへ送った歌は「はやりかぜ一年[ひととせ]おそれ過ぎ来しが吾は臥[こや]りて現[うつつ]ともなし」。

茂吉にしてはしみったれた短歌だが、熱は出るし汗はかくし、一カ月以上床に臥した。「後流行」のスペイン風邪であった。

命がけでモーローとしつつ短歌を詠んだ。詩、小説、日記は「ことばによるワクチン」である。横尾忠則氏の一連の「WITH CORONA」アートも「美術のワクチン」で、横尾さんの大作「城崎幻想」(二〇〇六年)は志賀直哉の短篇名作『城の崎にて』へのオマージュで、運河の船に裸体美女が眠っています。磯田氏の『感染症の日本史』は「歴史のワクチン」として読者を覚醒させる。