「銭形平次 - 司馬遼太郎」街道をゆく36本所深川散歩、神田界隈 から

 

銭形平次 - 司馬遼太郎街道をゆく36本所深川散歩、神田界隈 から

神田明神は、崖の上にある。
社殿のある平坦な場所からすこしくだると、中腹の茂みに碑があって、青みがかった石に、
銭形平次
ときざまれている。碑は、小説のなかの目明[めあかし]銭形平次親分が世話女房のお静と住んでいたまちを見おろしているのである。
“明神下”という気分のいい地名は江戸時代でも正称ではなく俗称だったようで、正しくは神田明神下御台所町[おだいどころちよう]と神田明神下御賄手代[おまかないてだい]屋敷で、まことにながったらしい。江戸城の御料理人たちが住んでいたのである。
むろん、平次が住んでいたような町方の長屋などもあって、角川書店の『日本地名大辞典』の「東京」の巻にも、
江戸期の俗称地名。現行の千代田区外神田2~3丁目、神田神社の境内をくだった辺の一帯。野村胡堂の捕物帳の主人公銭形平次の住居に設定されている。
とあり、平次に敬意がはらわれるいるのがうれしい。
私は作者の野村胡堂(一八八二~一九六三)にお目にかかったことはないが、『銭形平次捕物控』が雑誌に月々発表されていたころ、まっさきにそこから読んだ。
文章は、よく知られているように、“です”“でした”調である。叙述がすずやかで、すだれごしに上等な夏の料理をたべているような気がした。むろん、第一級の精神から出た言語であることを感じさせた。
吉田茂(一八七八~一九六七)が首相だったころ、このひとはひまなときは野村胡堂の捕物帳を読んでいると言ったため、新聞でさんざん低級趣味であるかのようにからかわれた。当時、私も若い記者だったが、新聞の政治家評のひくさにうんざりした。
本来、すぐれた言語というのは、口頭であれ、文字によるものであれ、なにが表現されているかということ以前に、ひとに微妙な快感をあたえる。芸術が快感の体系であると定義すれば(快感とはなにかとなるとむずかしくなるが)、胡堂の言語によって語られる作品もまたそうで、一国の首相が緊張をほぐすための言語として決してわるくない。
私が中学生だったのは昭和十年代だが、さまざまな大人の雑誌を夜店で買ってきて読むくせがあった。
それらの雑誌のなかの、あらえびすという筆名の人の文章に魅かれ、内容が私のにがてな音楽評論ながら、文章だけにひかれて読んだ。
そのあらえびすが野村胡堂と同一人物であることを知ったのは、後年である。
胡堂に、『胡堂百話』(中公文庫)という本がある。
それによると、母校の岩手県の盛岡中学(明治三十年入学)では、石川啄木(一八八六~一九一二)が一級下にいたという。胡堂は、そういう時代のひとである。
当時、盛岡中学は文学少年の巣窟だったようで、文学仲間の及川古志郎という同級生がいた。のちに海軍大将になった人物である。
啄木の才能をいちはやくみつけたのが及川だったかどうかはべつとして、ともかくもこの及川が胡堂に、石川の新体詩を見てやってくれないかとたのんだという。読んでみておそろしく下手だとおもった。後年の啄木を予見できなかったことを、前掲の本のなかで正直に書いている。
そのころの同窓に言語学者金田一京助(一八八二~一九七一)もいて、中学時代、花明という号で歌を詠んでいた。詩人としての感覚が、後年アイヌ叙事詩への傾倒につながったにちがいないが、このひとは啄木を理解し、終生の保護者になった。ついでなから、私は啄木のいい読者ではない。

胡堂は第一高等学校を経て東大法学部にすすみ、途中、父の死に遭い、卒業まで数ヵ月というのに中退した。胡堂の気前のよさを感じさせる。
すぐさま報知新聞社に入った。明治も最末年であった。
入社して二年後の大正三(一九一四)年、新聞に人物評論を連載した。『胡堂百話』によると、編集局の連中が、これは署名記事にするほうがいい、なにか雅号をこしらえろ、ということで、当人ぬきで、“胡堂”という号をつくりあげた。
十年後に音楽評論を書きはじめたときに、あらえびす、と号をつかった。胡堂に照応する号で、この号にも東北人であることの気勢[きおい]がうかがえる。要するに、江戸っ子の銭形平次は東北人によって書かれたのである。
新聞社では、学芸部長や社会部長などをつとめた。
昭和六(一九三一)年五十歳のとき、報知新聞社の社屋に文藝春秋の菅忠雄が胡堂を訪ねてきた。二階の応接室で会うと、菅は「オール読物」をはじめることになった、と言い、ついてはなにか書いてもらえないか、という。
岡本綺堂先生の半七捕物帳ですね。ああいうものを毎月書いて、もらえないでしょうか」(『胡堂百話』)
以上が、この稿の前口上のようなものである。

岡本綺堂(一八七二~一九三九)のことを考えてみる。胡堂が明治十五年うまれであるのに対し、綺堂は十歳上の明治五年うまれである。生家は御家人で、いわば筋目の東京人だった。明治二十二年、東京府立一中を出た。
家計の窮迫のため進学をあきらめ、東京日日新聞の見習記者になった。志すところは劇作にあった。
名作『修善寺物語』は明治四十四年、四十歳のときの作で、すぐさま明治座で上演されて、大評判になった。
捕物帳はいわば余技だったが、この形式によって綺堂の心にあふれていた江戸の市井のにおいや風物へのおもいを、表現することができた。『半七捕物帳』を「文藝倶楽部」に書きはじめるのは大正六(一九一七)からで、以後、昭和十年代まで断続して書きつづけた。綺堂にとって望郷の詩だったろう。
菅忠雄が昭和六年に胡堂を訪ねたときは、『半七捕物帳』は当然ながら世間でよく知られていた。
作中の半七は御一新前には神田三河町に住み、その縄張りのなかで目明をしていて、いまは隠居している。“わたし”が訪ねて行っては話をきくという趣向で、やがて江戸の捕物帳世界が展開する。
劇作家だけに、作中の会話がいきいきしており、半七のことばづかいも、いかにもその道の者らしく、たとえば「勘平の死」のなかで常磐津の師匠からなにか念を押されたとき、
そりゃあ知れたことさ、まあ、なんでもいいから私にまかしてお置きなせえ。
とどこか堅気でない。
が、胡堂の銭形平次は、子分の八五郎がひとに当身[あてみ]をくらわされた脾腹[ひばら]を見せようとすると、
見るまでもあるまいよ。ところで、話はそれっきりか。(「美しき人質」)
いわば伝法[でんぽう]でなく、言葉としてはお店者[たなもの]にちかい。
これに対し、綺堂の半七となると、ときに凄味をきかせる。
たとえば、前掲の「勘平の死」のなかで、半七は事件のあった大店に乗りこむ。
酔ったふりをして若い番頭の横っ面をなぐりつけ、「ええ、うるせえ。何をしやがるんだ」と若い番頭にいい、「てめえ達のような磔刑[はりつけ]野郎の御世話になるんじゃねえ。やい、やい、なんで他[ひと]の面[つら]を睨[にら]みやがるんだ。てめえ達は主[しゆ]殺しだから磔刑野郎だと云ったがどうした」とすさまじいたんかを切るのである。
そこへゆくと胡堂の平次は帝大を中退したお巡りさんのようで、おだやかに話す。手下の八五郎にも、ユーモアをもって接することをわすれない。
平次と八五郎の関係はシャーロック・ホームズとワトソンに似ているが、おそらく胡堂は意識してそうしたのだろう。
ところが、平次にはシャーロック・ホームズのきざったらしさはなく、その上、市井の目明でありながら品がよくて半七の凄味がないかわりに、田舎司祭のやさしさがある。