「掃除と掃除用具の人類史 - 松崎有理」ハヤカワ文庫 異常論文 から

 

「掃除と掃除用具の人類史 - 松崎有理」ハヤカワ文庫 異常論文 から

 

【冒頭-作品紹介】
論文SFの名手である松崎有理の最新論文SFが本作である。遠過去から遠未来にいたる長大な人類史を、「掃除」と「掃除用具」という観点のみからえぐり出す。人類の営みはつねに掃除とともにあるし、これからもそうであり続ける。あるいは人類が成すことすべては掃除であると言い切ってしまうこともできなくはない。人が動けばゴミは生まれるし、動かなくともゴミは生まれる。掃除すること自体が新たな掃除の概念を連れてくる。ゴミはゴミとしてあらかじめあるのではなく、どこからとも見いだされ、創り出される。だから人類が存在する限り、掃除が終えられることはない。掃除の範囲は拡大し続け、掃除の概念は拡大され続ける。それがどこまで拡がっていくのかは、あなた自身の目で確かめていただきたい。

まつざき・ゆうり。作家。東北大学理学部卒。2010年、大学研究室を舞台とした短篇「あがり」で第1回創元SF短編賞を受賞しデビュー。2011年より電子雑誌〈アレ!〉にてエンタメとしてのフィクション論文シリーズ「架空論文」を連載。2017年、連載に大幅加筆のうえ『架空論文投稿計画』(光文社)のタイトルで書籍化。公式サイトvurimatsuzaki.comでも不定期に新作の架空論文を発表し続けている。

「掃除と掃除用具の人類史 - 松崎有理」ハヤカワ文庫 異常論文 から

フリーランチなんて存在しない。-ロバート・A・ハインライン

そんなことはない。宇宙は究極のフリーランチだ。-スティーヴン・ホーキング

一 掃除の黎明-有史以前

人類が掃除をはじめたのはおそらく住居を持ったときである。
地球上に存在するほかの生物を観察すれば間接的に証明できる。大自然のなかを移動する生きものたちは掃除をしない!ゾウやヌーの群れは自分の糞を片付けたりしないし、ライオンは獲物の食べ残しを放置してハゲタカのつつくがままにする。いっぽう掃除の習性を持つのはアリ、ハチ、そしてハダカデバネズミである。かれらが掃除するのは定住している巣、すなわち住居だ。
それでは人類が家を得たのはいつか。これも推論だが、体毛を失って「裸のサル」となったときであろう。哺乳類の毛皮は体温を保ち雨風をしのぐ完璧な防具である。ヒトはこの便利な装備を突然変異によって失ったとたん、住居をつくる必要にせまられた。
裸の哺乳類にとって家がどれほど重要かは、ハダカデバネズミが教えてくれる。群れの全員が出入口を封じた地下の巣で一生をすごす。毛のない体では外気温の変化に耐えきれないからだ。巣の内部をせっせと掃除するのは、汚れたままでは病気が発生すると本能的に知っているためであろう。ないし、家とは毛皮なのだからグルーミングが必要だと考えているのかもしれない。
毛皮を持つ哺乳類たちもときに巣穴を利用するが、繁殖や冬眠など特定の目的に限られる。かれらにとって巣穴は「家」ではない。
ヒトも、なくした毛皮のかわりに家を持つと継続的な掃除をはじめたはずだ。だが掃除とは本質的にめんどうくさい作業である。しかも、狩りや採集とちがって成果がみえにくい。よってやる気が出ない。それでも、同じ家に住まう家族の健康を守るためしかたなくつづけたにちがいない。

 

 

二 古代の掃除

初期人類はエネルギーの獲得を狩猟採集に頼っていたため集団の人数が大幅に増えはしなかった。塵芥の排出は少なく、各人が個々の住居の清掃だけを心がけていればそれでよかった。
時代は下り、農業が発明され多くの人口を支えられるようになった。都市ができると、家屋の清掃とはちがうレベルの問題が発生した。のちの経済学者が「共有地の悲劇」と呼んだ現象である。市民みんなが使用する場所、たとえば道路はいったいだれが掃除するのか。
文化によって解決方法は異なる。古代エジプトの為政者はこのだれもやりたがらない作業を公共事業とした。掃除に参加した者にはパンとビールが振る舞われた。この事業は食いつめた市民を救うセーフティネットともなっていた。
古代ギリシャでは家屋はじめあらゆる場所の掃除が奴隷の仕事だった。ヘラクレスの神話において、ライオン狩りや妖怪退治とならんで家畜小屋掃除が「難題」とされたのは、このような背景を知ると納得できよう。半神半人の彼にとって掃除は精神的な難題であった。
掃除を奴隷に押しつけて余暇を得たギリシアの市民たちは思索にふけった。かれらは徹底した観察からものごとの本質を見抜こうとした。長い観察の結果、人間とは本質的に怠惰であると喝破する。さらに、人間をとりまく世界そのものも怠惰だと気づいた。ほうっておけば動物は死に、草花は枯れて倒れ、パンは腐っていやなにおいを発する。世界のこの状態をギリシア人たちは「無秩序が増す」と表現し[※1]、秩序を回復する力を「掃除力」と名づけた。
ローマでは掃除を刑罰にした。かれらの誇る巨大建築や上下水道などのインフラ設備は罪人の手でつねに磨きぬかれていた。ローマ人は清潔の快適さを知り、入浴は娯楽となった。巨大な浴場に湯を張り、湯を落としたあと清掃するのもまた徒刑囚。掃除の苦痛を味わいたくないがために、ローマの犯罪率は古代にしてはひじょうな低位で推移した。のちの歴史家はこの時代を「ローマの秩序」Pax Romanaと名づけた。パックスとは秩序をつかさどる女神の名前である。やはりのちの歴史家が「パンとサーカス」panem et circensesと形容したように、市民たちは安全かつ清潔な都市で当時最高の享楽を味わった。ギリシア人が人類の怠惰を発見したのなら、ローマ人は人類の娯楽[※2]への愛を証明したのである。
いっぽうインドはつきぬけていた。掃除が苦[※3]であると認め、そのうえで精神的修行と位置づけたのである。心を空[くう][※4]にして掃除にはげめば輪廻の苦しみから解脱できるという思想は、掃除を祈りと同じ位置に引きあげた。掃除を尊ぶ思想はインドから中国を経て極東地域まで到達した。

 

※1 「秩序が減る」と表現しなかったのは、当時のギリシアには負の数の概念がなかったためである。なおギリシア人たちは無秩序をエントロピーと呼んだが、のちのローマ人はギリシア文字がきらいだったのでこの用語はすたれてしまった。
※2 「娯楽」をあらわす一般名詞entertainmentはラテン語を語源とする。enten-「役に立たない」+tenue「楽しい」の複合語。
※3 インド人たちは人生には「四つの苦」があると考えた。病気、老化、死、掃除である。
※4 なにもないこと。やがて数学上のゼロの概念へ発展していく。

三 中世の掃除

中世は掃除における暗黒時代であるから軽く触れるにとどめる。
ローマ帝国が滅亡したあと、ひとびとは掃除刑から解放されてひどい怠惰におちいった。掃除の習慣は忘れ去られた。ギリシア人いうところの無秩序がいちじるしく増大したのである。ごみの不始末のせいで住居にネズミが出入りし、黒死病をまきちらして未曾有の犠牲者を出した。
この時代、掃除と秩序の火をともしつづけたのは中東であった。掃除を祈りとみなすインド文化の影響をうけて、石づくりの寺院を水で、水のとぼしい地域では砂で、徹底的に清掃した。礼拝前に体を清めることも重視された。掃除のいきとどいた手荒い場の美しさは、中世を通してまちがいなく世界の頂点に位置していた。

 

 

四 近代の掃除

 

おそらく偶然によって黒死病が終息したあとも、ヨーロッパは怠惰に支配されつづけた。
都市人口は急増したが、衛生設備はまったく追いついていなかった。せまい街路をはさんで密集する狭小家屋に水道はなく、まともなトイレは存在しない。塵芥回収システムもない。住民は糞尿と腐敗した生ごみの悪臭たちこめる無秩序のなかで生活していた。当然の帰結というべきか、黒死病の後釜としてコレラが降臨する。
十九世紀初頭のパリでは、深刻なコレラの流行をうけて時の市長が街の美化に乗り出した。市長は物理学者サディ・カルノーを都市美化計画技術顧問に任命する。カルノーは発展いちじるしい分野であった熱力学の知見を整理し、思考実験を行う。彼の導き出した結論は衝撃的であった。いわく、いくら掃除をしても宇宙全体での無秩序の合計は増加するいっぽうであり、いずれ無秩序が極大に達して宇宙は終焉を迎える。
無秩序には勝てない、引き分けにすら持ちこめない。増大する無秩序が宇宙を終わらせる運命だと知って、市長は絶望のあまりセーヌ川に身を投げた。そうこうするうちカルノー自身もコレラに罹患し死亡。その遺品は、パリの感染対策条例にもとづき焼却処分された。風の強い日であり、遺品を焼く炎はじつにあっさりと近隣の家々に燃え移った。これが市街地の九割を焼きつくしたパリ大火である。
三日三晩つづいた火災がおさまったのち、後任の市長が選出された。ジョルジュ・オスマンである。モンマルトルの丘から焼け野原のパリをながめつつ、オスマンは決意をこめて宣言する。掃除の力によってかならずやこの街から無秩序を追い払ってみせる。局所的な秩序回復であればカルノーの理論とも矛盾しない。宇宙など知ったことか。
オスマンの決意表明にロンドンなどほかのヨーロッパ諸都市も呼応した。かれらは宇宙滅亡の運命をいったん忘れ、コレラに打ち勝つという目先の目標のため都市の清掃に邁進した。こうして公衆衛生の概念はしだいに普及し、不潔に由来する感染症が駆逐されていく。
そのころ、古代インドの思想が生きる極東地域はどうであったか。同時期の江戸はパリをはるかにしのぐ人口を抱えていたにもかかわらず奇跡的な衛生状態を保っていた。市民たちは自宅のみならず、街路や側溝といった共用部分も隣家と協力して徹底した清掃にあたった。この慣習は江戸市民の清潔志向によるというより、共同作業に参加しないと村八分にされる恐怖が動機となっていたようだ。

(私は、ここまでに致します。)