「『文豪と感染症』解説 ー 岩田健太郎《副題「感染症屋」より、疫病学的見地から》」朝日文庫から

 

「『文豪と感染症』解説 ー 岩田健太郎《副題「感染症屋」より、疫病学的見地から》」朝日文庫から

本を読むのが大好きだ。
僕は島根県の田舎の出身だが、運動能力が低く、また不器用だったために少年時代に山遊びや魚釣りなど、腕白な田舎の少年がいかにもやりそうな野外活動にはのめりこまなかった。豊かな自然を十分に楽しむこともなかった。ヘミングウェイのニック・アダムスのようにはいかなかったのだ。
いじめられっ子でもあった。昭和の時代に運動能力に劣り、また不器用だった少年によくあるパターンだ。そして、これまたよくあるパターンで、本に逃げた。本を読んでいる間だけ、辛い現実生活から逃避できたからだ。
マッチ売りの少女がマッチの炎の中に現実逃避的な夢の世界を楽しむことができたように、本を読んでいる間だけ、ぼくは自分の周りにある七面倒臭い現実世界から離れ、本の中の世界に没頭できた。
幸い、父親が読書家だったために家には大量の本があった。おそらくは学生時代あたりに入手したのだろう、油紙に包んだ、古い、旧仮名遣いの文庫本が多かった。そこで少年時代の僕は、難解な漢字と格闘しつつ、漱石や芥川たちの小説にのめり込んだ。
ぼくは読書については悪食で、多種多様なジャンルの本をムシャムシャと読む方だ。しかし、明治・大正の「文豪」たちが書いた文章にはちょっと特別な郷愁の念が湧き上がってくる。この少年時代の体験のためであろう。
そんなわけで、朝日文庫編集長の牧野輝也氏に本書の「疫病学的見地からの解説」を依頼されたときは、二つ返事でお引き受けした。
本書は一九一八年(大正七年)に勃発したインフルエンザの世界的大流行(パンデミック)を扱った日本のフィクション、ノンフィクションを集めたアンソロジーである。明治・大正時代の豪華な文豪メンバーの文章が集められた。ぼくの大好物である。
もちろん、ぼくに解説の依頼が舞い込んできたのは、ぼくのささやかな少年時代の思い出のためではないだろう(そんなもの、誰も知らんし、興味もない)。感染症屋の立場から、当時の文章を「疫病学的に解説」せよ、というのが依頼文であった。
引き受けてから冷静に考えてみると、これはかなり無茶振り、かつやっかいなミッションである。
本書の読者は(ぼくと同様)文学を愛するゆえに本書を手にとったのだろう。インフルエンザという疾患や、その病原体のウンチクに興味関心が高いがゆえに本書を買おうという人は、あまりいないように思う。プロの感染症屋なら教科書や原著論文を読むだろうし、アマチュア感染症マニアであれば、雑誌「ニュートン」や講談社ブルーバックスあたりを読むのではなかろうか。こんなところで他社の雑誌やシリーズを紹介してよいのか、知らんけど。
お笑い芸人がユーモア満載の小説を「お笑いの観点から解説」せよ、といわれれば当惑するのではなかろうか。よく言われるように「ジョークの解説はカエルの解剖に似ている。理解は深まるが、カエルは死んでしまう」のである。
というわけで、思いの外、難しい依頼を安請け合いしてしまったな、と半ば後悔しているのだが、お引き受けした以上はあとには引けない。お陰様で、役得で楽しい文章をたくさん読む機会もいただいた。「カエルが死なない」程度に、感染症のウンチクなどここで語ってみようと思う。

 

明治・大正時代の日本人の平均寿命は四十歳ちょっとだ。ざっくり言えば、現在の半分の長さくらいしか生きられなかったのだ。(本当はこの言い方はちょっと間違っているのだが、ここでは細かい議論は省く)。
長生きできない、がデフォルトだったこの時代の主な死因は結核、胃腸炎、肺炎、そして脳血管疾患(俗に言う、脳卒中)である。
結核の治療薬の嚆矢[こうし]、ストレプトマイシンが発見されたのが一九四三年(昭和十八年)。結核が「治る」病気になるのは戦後のことであり、当時の結核は現在で言えば進行がんのような「死に至る病」であった。当時、人口一〇万人たあたりで年間で二〇〇人以上の人が結核で死亡していた。現在は二人未満だから、今より一〇〇倍以上結核で死んでいた時代であった。宮崎駿の映画、「風立ちぬ」でも主人公の細君が結核に罹患し、そのために命を落としているが、このようなエピソードは当時は普遍的だったのだ。
現在、先進国において「胃腸炎」で死亡する事例はそう多くはない。これがメジャーな死因になるのは、現代であれば途上国に限定されている。しかし、明治・大正時代の日本はまだ上水道も下水道も充実しておらず、人々の衛生観念も乏しく、有り体に言えば非常に不潔な国だった。こういう国では不衛生な食品や水から感染性腸炎を発症し、そして死亡に至るケースが多くなる。当時の日本はそういう点では「途上国的」だったのだ。
日本人はきれい好きで、衛生観念にも優れている、とよく言われるが、それはごく最近の話。往時の日本人は実に不潔で、つばを道端に吐き捨てたり、ゴミの投げ捨てなども平気で行っていた。岸田國士の「風邪一束」では日本人はいつも咳をしている。痰を吐いていると述べている。コロナの時代には人前で咳をするなんて(怒られそうで)怖くてとてもできないし、痰を吐くなど論外であろうが、当時の日本ではこれが当たり前だったのだ。
ぼくは小学生のとき(昭和五十年代)、夏休みの研究課題で路上に投げ捨てられた空き缶を集めて筏を作り、宍道湖に浮かべたことがある。タバコの吸い殻やゴミのポイ捨ては日常的だった。母の実家は東京だったが、夏休みに東京に「帰省」すると空気が汚く、水がまずく、ドブ川が臭く、海がゴミだらけなのに閉口した。国土交通省によると、下水道処理普及率が五〇%に至ったのはなんと一九九四年(平成六年)のことである。日本はつい最近まで、とても不潔な国だったのだ。
ぼくは一九九八年にミャンマーを旅したことがある。首都ヤンゴン(当時)が臭いドブだらけで、猥雑だったことを思い出し、大正時代の東京はこんな感じだったのかしら、と想像した。もっとも、街こそゴミゴミしていたがミャンマーという国そのものは実に美しく、マンダレーまでの夜行列車(日本の昭和時代の車両のお古を使っていた!)から見える景色は絶品。人々は温厚でぼくは彼の国のことが心から大好きになった。明治・大正時代に日本になってきた「欧米人」たちも似たような心境になったのではなかろうか。本稿執筆時点(二〇二一年六月)でミャンマー旅行など夢のまた夢になってしまったけれど。

 

閑話休題

世界で初めての抗生物質が開発されたのは一九一〇年(明治四十三年)頃。パウル・エールリヒと島根県出身の秦佐八郎によるサルバルサンがその嚆矢となった。このことは、拙著『サルバルサン戦記』(光文社新書)で書いた。しかし、サルバルサンは梅毒という特殊な感染症の治療薬であり、またその治療効果は乏しく、毒性も強かった。アレクサンダー・フレミングペニシリンを発見するのが一九二八年(昭和三年)、ドイツのゲルハルト・ドーマクがサルファ剤を開発するのが一九三〇年代の後半、強力な抗生物質ペニシリンが大量生産され、医療現場で活用されるのは一九四〇年代以降のことだ。本書の舞台となる大正時代にはまだ抗生物質は実質上存在しない。現在ならば「肺炎」は抗生物質で治療するのが常識だが、その常識がこの時期には存在しない。結核同様、当時の肺炎は多くの人の命を奪う病であり、治療法は存在しなかった。
脳血管疾患(いわゆる脳卒中、あるいは中風ともいった)は感染症ではないが、当時の死因の上位に入る。当時はおそらく脳出血が多かったと思う。高血圧の治療薬もなければ、診断に用いるCTスキャンもない時代だ。
現代人の死因のトップは悪性新生物、いわゆる「がん」であるが、大正時代にはがんになる方も亡くなる方も少なくはない。理由は簡単だ。多くの人は、がんになるまで長生きできなかったからだ。もっと前の段階で、前述の別の理由で死んでいたからだ。
こどもだって、無事に生まれてくるとは限らない。当時の新生児(生後四週まで)死亡率は出生千中五〇以上、乳児(一歳まで)死亡は一五〇以上であった。生まれた赤ん坊の六人に一人は生後一年も生きていられなかった。とにかく人が容易に死ぬ時代だったのだ。新生児死亡や乳児死亡が限りなくゼロに近づいている(乳児死亡は二五〇人に一人程度)現代日本とは大きな違いである。
大正デモクラシー」の名前が暗示する、明るく文明的な大正時代だが、その実情は、感染症などの病気が普遍的で、街は不潔を極め、健康や長寿が得難いものだった時代だ。少なくとも、そういう側面「も」あるのが大正時代だ。
そのような文脈の中での「スペイン風邪」である。こうした時代背景を理解しながら本書を読めば、作品中の登場人物や筆者の死生観や、病気に対する認識(あるいは諦観)などが、よりリアルに感得できるのではなかろうか。アンソロジーに出てくる「スペイン風邪」は大量の感染者を発生させ、そして多数の死者を生んでいる。しかし、文中の人物の「スペイン風邪」への態度は恐怖に満ちている一方で、どこか突き放したような、乾いたような態度でもある。「死」というものがより日常的であった。また、これという診断方法も治療方法もなかった。現代の人のようにPCL検査がー、とか日本産のイベルメクチンはどうじゃー、というタイプの論争も起きなかった(たぶん)。

さて、前置きが長くなったが「スペイン風邪」である。一九一八年から世界的に大流行したインフルエンザのパンデミックだ。
なんとかデミック、というのは感染症の流行を意味する。突発的に一地域で流行するものをepidemicと呼び、長期間慢性的に存在する感染症をendemicと呼ぶ。世界中に流行するとこれをpandemicと呼ぶ。最近はinfodemic(インフォデミック、信用できないガセネタが流布すること)など、感染症以外にも「なんとかデミック」は転用されている。
有名なユーチューバーなどは「インフルエンサー」なんて呼ばれたりするが、似たような名前のインフルエンザも語源は同じである。元は中世ラテン語→イタリア語が語源で、天体の「影響」で流行が起きると考えられていたため、このような名前になった。ちなみに、熱帯の感染症マラリアも語源はイタリア語で、「mala aria.悪い空気」という意味である。手元の『ランダムハウス英和大辞典』(小学舘)によると、どちらも一八世紀に生まれた用語のようだ。
オランダのアントニ・レーウェンフックが光学顕微鏡を開発し、微生物を発見したのが一六七四年のことである。しかし、この偉大な発見は当初専門家からは眉唾ものとして扱われた。そしてこの微生物こそが感染症の原因である、と証明されるにはドイツの巨人、ロベルト・コッホの登場を待たねばならなかった。炭疽菌を用いて微生物による感染症発生をコッホが証明したのが一九世紀後半、一八七六年のことだ。一八世紀のヨーロッパ人がお空のお星さまや、「悪い空気」が病気の原因と考えたとしても、無理からぬことであっただろう。
一九一八年にパンデミックを起こしたのはインフルエンザ・ウイルスというウイルスだ。ただし、ウイルスは光学顕微鏡で見ることはできない。よって、当時の医療者たちは何と戦っているのか判然としない状況下で感染対策を強いられていた。現在のようにPCR検査などで病原体を見つけ出せる時代から振り返ると、それは実に恐ろしい体験であったと思う。
プロの感染症屋はどんなに致死性の高い病原体を相手にしても、そうそうビビったりはしない。戦う相手が何なのかが分かっている限り。が、「そもそも何と戦っているかのか分からない」のは怖い。「分からない」は怖いのだ。アマチュアの方は逆に、怖がる必要のないものを過度に恐れ、本当に怖がるべき対象に無謀に立ち向かっていく。巨大な人間に立ち向かっていくノミのように。まさに「勇気」とは「怖さ」を知ることなのだ(by『ジョジョの奇妙な冒険』のツェペリ男爵)。ゾーニングが破綻したクルーズ船内にいる「怖さ」を知るように、だ。
スペイン風邪が何らかの感染症であることは知られていた。が、ウイルスの存在が明らかになるのは二〇世紀になってからで(ウイルスが起こす疾患そのものは、天然痘狂犬病など、すでに認識され、ワクチンは開発されていた)、インフルエンザ・ウイルスが見つかったのは一九三三年のことである。
スペイン風邪」に苦しむ患者からウイルスを見つけることは当時はできなかったが、患者から別の病原体は見つけられた。これが細菌のインフルエンザ菌だ。名前がややこしいが、要するにインフルエンザの原因と勘違いされた菌なので、インフルエンザ菌なのだ。今でも使われている、ややこしい名前なのだ。インフルエンザは重症化すると二次性細菌感染を起こす。細菌は光学顕微鏡でも見えるから、当時はこれがインフルエンザの原因と勘違いしたわけだ。
ちなみに、日本では「スペイン風邪」対策に予防接種が大量に提供されたが、これも実は「インフルエンザ菌」に対するワクチンだ。与謝野晶子が「死の恐怖」のなかで、「私は家族と共に幾回も予防注射を実行し」と書いているのは、このことであろう。このワクチンのために重症二次性細菌感染を防ぎ、日本でのスペイン風邪の死者を減らすことに成功した、という主張を目にすることがあるが、そのような効果を実証的に示したデータをぼくは知らない。
いずれにしても、インフルエンザが重症化すると、ウイルス感染のみならず、細菌感染も併発するというのはよく知られた話である。「スペイン風邪」が重症化しやすかったのは、当時の世界の人達に、このウイルスに対する免疫がなかったからだ。なぜ、免疫がなかったかというと、インフルエンザウイルスの遺伝子に変化が起き、表面の抗原が変化して、人間の免疫細胞がウイルスを認識しにくくなっていたのである。こういうことが、インフルエンザウイルスには数十年に一度くらい起きる。その最大のパンデミックが一九一八年の「スペイン風邪」だったというわけだ。
余談だが、なぜ「スペイン」風邪かというと、第一次世界大戦の影響を受けていない稀有なヨーロッパの国だったスペインからインフルエンザの情報がたくさん発信されたため、と考えられている。実際にはアメリカ合衆国でこの病気は始まり、第一次世界大戦に参戦したアメリカの軍人によりヨーロッパに伝播し、その後世界中に広がりパンデミックになったと考えられている。

インフルエンザの症状は高い熱、体のあちこち、あるいは喉の痛み、寒気が急にやって来ることだ。そういう意味では、佐々木邦の「嚔」はそのインフルエンザの臨床症状が丁寧に、そして正確に記述されていて興味深かった。
よりにもよって結婚式の日にインフルエンザに罹患してしまった令嬢の妙子さんだが、くしゃみ、咳、頭痛、「背中から水を浴びせられるように悪寒[さむけ]」がし、「迚[とても]起きちゃいられ」ないのである。その症状の描写は極めて正確で、おそらく筆者あるいは周辺が実際に体験したインフルエンザの描写であろう。
宮本百合子の『伸子』でも、同様に非常に正確なインフルエンザ症状の描写がある。主人公の伸子はニューヨークに住んでいたのだが、ここでインフルエンザに罹患する。「濡れた兎」のような悪寒に苦しめられる。
そういえば、「嚔」にはインフルエンザ対策について興味深い記述が多い。
例えば、咳くしゃみをするときには「布片又は紙などにて鼻口を覆うこと」とある。現在で言うところの「咳エチケット」だ。「命を惜しい人は皆烏天狗のようなマスクをつけて歩いた」とあるから、感染予防目的のマスクも当時すでに周知されていたのだろう。さらに、
一週間というもの私が附ききりでございました。まあ、酸素吸入で命を買ったようなものでございます。
とあるから、酸素投与という治療オプションもあったようだ。いろいろ、気付かされることが多い。
マスクと言えば、菊池寛の「マスク」も面白かった。本作の主人公は太っている。昔は肥満体は健康の証だった。しかし、明治・大正のころから医学情報が変遷し、肥満はむしろ不健康の証拠となってきた。ちなみに、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)でも肥満は死亡リスクであり、我々が診療している重症病棟には肥満した患者が多い傾向がある。コロナ対策として、現場の医療者が密かにおすすめしているのは、ダイエットだ。
病気を恐れた「マスク」の主人公は外出を避け、そしてマスクを着用する。自らマスクを着用することを正当化しようとし、「臆病でなきして、文明人としての勇気だと思う」という。しかし、結局、その主人公もまた春になり、初夏になって暖かくなり、そんな気候のなかでマスクを着けるのが嫌になってしまう。そんな主人公がマスクをしないでいるとき、ある青年がマスクをしているのを見て、それを不快に思うのだ。なぜ、主人公は他人のマスク姿に不快に感じたのか。それは本編をお読みいただくのが良いと思うが、「周囲と異なる行為を敢えて行う勇気、そしてそれに対する不快感」は当時から日本にあった強い同調圧力の表現なのかもしれない。さすがは、菊池寛。現代の「文春砲」に通じる文藝春秋創始者である。日本人の習性への理解や観察の鋭さ、的確な批評には脱帽だ。
同じように感銘を受けたのは、やはり菊池寛の「神の如く弱し」におけるDivine Weakness、「神の如き弱さ」という概念である。病に苦しむ登場人物が、周囲の人物たちから軽蔑されつつ、金銭援助をオファーされる。そのオファーに対する「弱さ」の「美しさ」もまた、現代に通じるものがある。最も勇敢な言葉は「助けて」だ、という話をどこかで聞いたことがあるが、そういうことなのだろう。
通常、インフルエンザは速攻的に発症し、しかし比較的短期でよくなってしまう感染症だ。大人だとだいたい一週間くらいで元気になって回復する。しかし、今回本書を読んで改めて感じたのだが、症状が長く続く方の描写が案外多くてびっくりした。
「嚔」でも妙子、清之介両名が肺炎を合併している。細菌性肺炎だろう。現在であれば、インフルエンザに続発する肺炎は抗生物質でさっさと治療することが可能だ。が、すでに述べたように当時は抗生物質という治療選択肢はない。よって、自然に治るまでとにかく寝て、酸素を提供されて、待つよりほかなかったのであろう。

ぼくは実は、インフルエンザに罹ったことはない。毎年、インフルエンザのワクチンを接種しているせいもあろう。だから、それがどのくらい苦しい病気なのか体験していない。そして、自分の患者さんがインフルエンザから肺炎になれば、すぐに抗生物質で治療している。現代医療で細菌性肺炎に抗生物質を使わない、という選択肢はないのだ。だから、インフルエンザに続発した肺炎を抗生物質なしで治療されたとき、患者さんがどれだけシンドいのかは分からないし、そんな患者を観察したこともない。とにかく、とてもシンドいのだろうな、と想像するだけだ。
永井荷風は『断腸亭日乗』で自分が「スペイン風邪」に罹患したときのことを記録している。十一月に「突然悪寒をおぼえ」、その後もなかなか改善しない。翌年一月にも40°Cの高熱に苦しんでいる。二月になっても、三月になっても症状は続き、結局、荷風は三年も後遺症に苦しんだのだという。二一世紀に生きる我々には到底想像できないほどの、長い長い苦しみを当時の「スペイン風邪」はもたらしたようである。
スペイン風邪」は第一次世界大戦終結間際に流行が始まった感染症だが、世界中に沢山の死者をもたらした。世界では何千万の人が亡くなったと言われるが、これは大戦の死亡者数にも匹敵する。日本でも当時五千万人以上いた人口の半分程度が感染、数十万人が死亡したと言われる。「自分の一家は恙なくても、少なくとも、知人友人を失わないものはなかったろう」(佐々木邦「嚔」)という。本稿執筆時点で、一億以上いる日本の人口の中で一万人以上の方が新型コロナウイルス感染のために命を落とした。その社会に与えたインパクトももちろん、大きいのだが、当時の「スペイン風邪」はさらにそれ以上に巨大な影響を社会にもたらし、多くの知人、友人、そして自らも感染した。秋田雨雀は「秋田雨雀日記」の中で、恩師の島村抱月とその恋人の女優、松井須磨子が「流行性感冒」に罹患し、抱月がその後死亡したことを記している(松井須磨子はインフルエンザから回復するが、恋人を失い、翌年自殺してしまう)。抱月のことは与謝野晶子も「感冒の床から」で記している。なお、秋田自身、インフルエンザに罹患するが、やはりその症状は長引き、数ヶ月も病に苦しんでいたようだ。
与謝野晶子がインフルエンザの予防接種(実はインフルエンザ菌に対するワクチン)を受けていた話はしたが、彼女は国の感染対策にはかなり批判的だったようだ。「風邪までが交通機関の発達に伴[つ]れて世界的になりました。」と現代文明の弊害をチクリと皮肉り、「盗人を見てから縄を綯うと云うような日本人の便宜主義」と国の後手後手の対応を厳しく批判している。それだけではない。学校の対応がよくないとか、なぜ政府は密集する場所の一時的休業を命じなかったのか、とか、かなり辛辣な批判が続く。与謝野が現代に生きていたら、グローバル化に伴う新型コロナのパンデミックや、常に後手後手にしか対応できない国のコロナ対策を相当手厳しく批判したことであろう。
治療薬の運用法についても彼女は非常に批判的だ。
平等はルッソウに始まったとは限らず、孔子も『貧しきを憂いず、均しからざるを憂う』と云い、列子も『均しきは天下の至理[しり]なり』と云いました。
といい、「最上の解熱剤」が市民に提供されず、「一般の下層階級にあっては売薬の解熱剤」しか使えないと批判する。まあ、現代医学の視点から考えると、解熱剤でインフルエンザの治癒が早まったり救命できたりはしない。逆に「スペイン風邪」の死亡を助長したのはアスピリンの使いすぎ、薬の合併症が一因ではないか、という学説もあるくらいだ。しかし、そのような専門家の揚げ足取りはどうでもよい。大事なのは与謝野の素朴ではあるがまっとうな正義感であり、ときの政府を真正面からボコボコに批判するその態度の高潔さである。現代の日本の「専門家」も少しは与謝野の勇気を学ぶべきだ。

感染予防についても当時の人々の認識が窺えるのが、志賀直哉の「流行感冒」だ。かわいいこどもに感染させたくないゆえ、主人公の男性はできるだけの感染防護策を施す。娘を小学校の運動会に参加させず、女中が町に出るときも、店先で話し込んだりしないようにさせる。まさに、現代で言うところの「緊急事態宣言」「イベント自粛」「ソーシャルディスタンス」といった飛沫感染予防である。結局、言いつけを守らずに女中が芝居を見に行ったか否か、ですったもんだするのだが、小説の内容をここでネタバレしてしまっては台無しなので、あとは本編をお楽しみに。
一風変わっているのが、谷崎潤一郎の「途上」だ。
「途上」は感染症や事故などをテーマにした短編ミステリーだ。ここにもインフルエンザの再感染のエピソードや腸チフス、パラチフスといった感染症への言及がある。
主人公の湯河の先妻は大正七年の十月に一度、翌年の正月にもインフルエンザに罹患している。その数ヶ月後にチブスで逝去したのだ。大正六年の十月にもパラチフスに罹患している。繰り返す感染症。奇妙な話だ。ここからミステリーが展開される。
本来、「チブス」はリケッチアという細菌による感染症で、シラミが媒介する。しかし、文章中、食べ物による感染が示唆されているので、ここはいわゆる「腸チフス」というサルモネラ菌による感染のことだろう。同様に、パラチフスも別の種類のサルモネラ菌による感染症だ。まあ、こんな感染症屋のウンチクは面白くもおかしくもないかもしれないが。
チフスにしても、パラチフスにしても、サルモネラが飲食物を汚染して、口から感染する。現在なら抗生物質で治療できるが、当時は致死性も高くて根本的な治療法もなかった。余談だが、ほぼ同時代の高知県が舞台の宮尾登美子の小説『鬼龍院花子の生涯』にも腸チフスは登場する。同名の映画(五社英雄監督、一九八二年)では岩下志麻演じる侠客の妻と、夏目雅子演じる養女が腸チフスにかかる。岩下演じる妻のほうは死亡し、夏目雅子の方は回復、生存している。余談終わり。
「途上」では短期間に同じインフルエンザに二回罹患するなど、感染症学的にはおかしな記述もあるが(罹患により免疫が生じ、この免疫が低下するにはもっと時間がかかるから、そうすぐには感染は繰り返さない)、このような専門家の揚げ足取りは趣味が悪いから言わない(言ってるけど)。それより興味深いのは、本作中に「危険のプロバビリティー」という興味深い概念が紹介されていることだ。実は、これは感染症学の肝中の肝というべきところで、リスクは常にプロバビリティー、つまりは確率で論ずるのが基本なのである。業界用語ではライクリフッド(Likelihood)、日本語では尤度[ゆうど](いぬど、ではない)という変な言葉が使われる。これを理解しなけろば、新型コロナウイルスのワクチンもPCR検査も、その他諸々の概念もまったく理解できない(理解できている、と主観的に信じている向きも本当は理解できていない)。
というわけで、谷崎の「途上」は専門家的には食いつくところが多い、実に読み応えのある作品だった。もちろん、ミステリーとしても面白いのだが、そこに解説が立ち入るのは無粋だろうから、ぜひ作品をお読みいただきたい。

「解説」では本書のすべての作品を取り上げることができなかった。ぼくのような素人が斎藤茂吉の短歌や芥川の書簡を文学的に論ずることなどとうていできない。不十分な「解説」であることを心からお詫び申し上げつつ、本稿が皆様の作品理解や読書のわずかな一助になっていれば幸いである。
死んだカエルになっていないことを切に祈っています。

二〇二一年六月

(いわた けんたろう/神戸大学大学院医学研究科教授)