「虚子点描(抜書) - 矢島渚男」虚子点描から

 

「虚子点描(抜書) - 矢島渚男」虚子点描から

ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ 一九〇八(明治41)年 

漢字をあてると、「吾輩の戒名もなき芒かな」となる。九月、漱石の猫の死に際して送った電文そのままの句である。「猫」の書き出し「吾輩は猫である。名前はまだない」を踏まえている。この猫は漱石を世に出してくれた猫だったが、ついに名前を与えられずに終った。むろん戒名もなかったし葬式もなく、庭の隅に「猫の墓」とだけだった。虚子が猫になり替わって言っている。実に上手く気の効いた愉快な句だ。
大学予備門(のちの一高)の同級生だった子規と漱石は親友になった。南方熊楠も同級だったが変わり者のこの天才は授業にも出て来なかったのか、二人の間では話題にならぬうちに退学している。子規と漱石はときどき俳句を作っていたが、熱心になったのは子規が日清戦争に従軍記者となって帰りの船中で喀血し病を養っていた時、漱石が松山の自分の下宿に呼び寄せて生活を共にしたのが契機だった。子規が階下で連日俳句会を開いていて、それに参加して漱石は俳句にのめり込み、子規が東京に去ってからも手紙に句を書き連ね批評を乞うようになった。子規は訪れてくる虚子にそれを見せ、虚子の選評を受けることもあり、交友するようになったことはすでに述べた。
漱石は翌一九〇〇(明治三十三)年秋から二年間のイギリス留学を命じられ、ロンドンに留学する。翌々年の十一月、虚子からの手紙で子規の死去を知り、返信に追悼の五句を記している。
帰国後の漱石は訪れる友人も少なく、虚子と熊本高時代の教え子寺田寅彦くらいだった。極度の神経衰弱で悩んでいたが、気が紛れるだろうからと虚子が文章を書くことを勧めて短編が生まれ、やがて第一回目の「猫」を書き、虚子はこれを「ホトトギス」に掲載した。題名は漱石から「猫伝」にしようか、それとも最初の一行から「吾輩は猫である」にしようかと相談され、虚子が後の方を取ると言って決まった。これが大評判となって続々と書くこととなり小説家漱石が誕生する。彼の重い尻を押して、大作家夏目漱石を作り出したのは虚子だったと言えよう。
その後『坊ちゃん』『草枕』も好評で「ホトトギス」は大いに売れて繁栄し、俳句雑誌「ホトトギス」は一変して文芸雑誌の観を呈し、経営者である虚子自身も小説家として世に立とうとした。

もの置けばそこに生れぬ秋の蔭 一九三八(昭和13)年

虚子を読んでいて、心底すごい、と感ずるのは、たとえばこんな句である。
なんでもない句である。どこであっても、どんな「もの」であってもいい。
なんでもない句でありながら、普遍性があり、行住坐臥の生まれたおそろしい句である。
あるのは季節だけと言っていい句である。「秋」という季節だけがある。秋であることが季節の巡りを感じさせる句である。秋を感じている人間も、そこに浮かんでくる。秋も深まっている。静かに仕事をし、あるいは仕事に倦んだ人間が現れてくる。仕事だけではなく、人生に倦んでいるのかもしれない、と思わせる。
「秋」でなければならない。どこか底知れないものがある。
そこまで思わせるのは「蔭」のせいかもしれない。「影」ならば、当たり前の句かもしれない。影は物理的なシャドウである。蔭は「お蔭様で」の蔭である。そこに人の世が忍び寄る。はじめ「玉藻」に「影」で出したが、翌年「ホトトギス」に「蔭」と推敲して出している。茶碗が卓に置かれたときの偶作かもしれない。

ふとしたることにあはてて年の暮 一九五八(昭和33)年

死の四か月前の十二月三十日の某句会に出された句で、まさに年の暮れのありのままの自分を詠んでいる。「忘れていたことをふと思い出して慌てた。大したことではないのだが、年内にやって置かないといけないことだった。」
齢をとると、実によく忘れる。薬を飲んだかどうかといった数分前のことでも忘れてしまう。気にかけていた行く先の予定さえも忘れることがあり、自分が情けなくなる。老いの実情である。日常語の「あはてて」がいい。
なお、「忘れゐし事にうろたへ冬籠」(一九五一)も『七百五十句』にあるが、掲出句が勝る。実情にでた「年の暮」の季語がいいのだ。