「俳人の文章Ⅰ - 鴨下信一」忘れられた名文たち から

 

俳人の文章Ⅰ - 鴨下信一」忘れられた名文たち から

司馬遼太郎さんによると、現代口語文の成立に一番寄与しているのは正岡子規の散文だという。こうやってさまざまな文章をあさってゆくと、我々がいま書き慣れ読み慣れている標準的な日本語の口語文体を作りあげてきたのは、けっして文学史上の純文学の文豪たちではなく、(i)きわめて大衆的な小説家や随筆家あるいは雑文家(ii)新聞記者(iii)戯曲や短歌俳句などの口誦文芸の作家(iv)談話筆記等の速記本作者(v)そして素人、こうした人たちこそ、この大事業をなしとげた人々であることがよくわかってくる。
正岡子規はジャーナリストでもあり、短歌俳句に関してはご存知のような大先達で、しかも散文はアマチュアをもって自認していた。前述の条件に非常によくあてはまる。これからしばし、俳人の文章をひろってみたい。
俳文というものがあるのでわかるとおり、俳句を作る人にはよく散文をものする人が多い。虚子以来の写生文は、一時期日本の口語文の典型とされていたことがあった。
後藤夜半は虚子門下で俳誌「諷詠」を主宰、「滝の上に水現れて落ちにけり」が代表句とされている。昭和五十一年没、没後一冊の文集が編まれ最近刊行された。ただ一冊の文集ということは散文の世界では著名ではないということなのだろうが、非常に巧い文章である。

玄関の小窓から庭の植え込みを見ていると、隣家の高等学校の先生の庭の茂みの間に、大きな底紅の花が咲いているのが目についた。去年の夏、私はこの底紅の花を眺めて
底紅の咲く隣にもまなむすめ
という句を作ったのであるが、たしか八月七日にこの句を作ったように覚えている。今年は一か月ほど咲くのが早いようである。隣の娘さんにこと寄せて、わが家の末の娘のことを詠んだのであるけれども、その娘も今年はすでに嫁[かた]づいて行って終[しま]って、老人二人の生活になった。

一見何でもない文章だが、もし文章を書き慣れてない一般人が何かしかの文章を書かねばならないとなったら、もっとも手本になりうる文章である。実用的な名文という名に値する。しかし、ぼくが感心したのは文集の中の次のような文体のものである。

 

今日は兼題の山吹の句を沢山見せて貰いましたが、山吹の句で思い出しますのは、虚子先生の
山吹の花の蕾や数珠貰う 虚子
山吹に少し疲れしかと思ふ 同
の二句であります。(略)
昭和十八年の五月に嵐山の花の家で関西同人会がありまして、御西下の先生をお迎えしたのですが、そのときは大堰川[おおいがわ]に大きな遊船を浮かべて句を作りました。句会のあとで食事を致しまして、その席上京都の長老の松尾いはほ翁が、皆に頒[わ]けるからと言って、先生の揮毫[きごう]を乞われたとき、先生のお書きになった句に、山吹に少し疲れしかと思ふ、がありました。尺五くらいの四角い紙にお書きになりましたが、いはほ翁が「もう一枚、もう一枚」と低頭平身で拝み倒すように頼まれるので、お弱りになりながらも終いにはこの「山吹に」の句ばかりを書かれたのが深く心に残っております。先生のそのときのお気持なりお疲れの容子[ようす]がよく出ていたように思います。(略)
次にただ今私が選に戴いた、
山吹や燈心亭の細柱 田中鼓浪
という句について、少し心づいたことがございますので一言申し上げます。
この句は水無瀬宮[みなせぐう]へ行かれたときの作であろうと思いますが、水無瀬宮の神苑[しんえん]は、山吹ばかりであるといってもいいほど山吹が植わっております。目に入るものは山吹の大きな叢[むら]ばかりであります。この句に詠まれています「燈心亭」は、後鳥羽帝の愛された茶室で、佳い庭がありますが、ここにも山吹が沢山植わっています。
句の鑑賞の上には直接関わりはないのですが、この山吹の中の茶室が「燈心亭」と名づけられているのは、なかなか面白いと思います。昔燈明を灯[とも]すときの燈心は、細藺[ほそい]の茎の心を用いたものと聞いておりますが、山吹の茎にもあたかも白い燈心のような髄がありまして、われわれの小さい自分は、これを燈心と呼んで遊んでおりました。

 

こういう丁寧な言葉づかいの口語文というのは非常に書き難いのである。まずこのてで巧い文章というのを見たことがない。ところがわれわれの日常では、けっこうこうした丁寧な言葉で文章を書かねばならない時がある。これは珍しくもって範とするに足る文章である。
後藤夜半はたしか能楽の喜多実の兄で、本業は大阪北浜の証券業だった。つまり、いい方は妙だが、堅気の一般人なのである。この人の文章を見てゆくと、ああこういう文章が一般人の書く名文というものなのだなと思えるのである。一般にホトトギス系の写生文はこうした文体なので、高濱虚子その人の「俳句の五十年」から、ほんの少し引用する。

私等仲間は又文章の方面でも新しい仕事をしようと企てました。それは、前に申しました写生文と自らよばれるやうになつた文體の文章でありました。(略)その文體は、非常な勢ひで新聞雑誌に拡がり、又小學校の生徒の作文に拡がつて行きました。(略)永く小學校の校長をつとめた、関萍雨といふ人がありますが、この人がまた静岡の師範學校の教生であつた自分に、初めて「ホトトギス」の文章を見て、その生徒にこれを學ばせた、さうすると、瞬く間に生徒の文章は變つたといふ事をいつてをりますが、それは小學校で「ホトトギス」の文章を拡めた最初のものであつたやうに思います。(昭和十七年)

夜半の文章と酷似しているが、これは談話筆記である。もちろん喋った言葉そのままではあるまい。虚子がもともとどう喋ったかを想像すると、とても面白い。口誦そのものと文章化の微妙なちがいを見てとれる感じがする。
ついでのことに、山吹の髄のことにふれておく。むかしの縁日の夜店にはかならず山吹鉄砲というのがあった。あの鉄砲の弾丸にしたのが後藤夜半の文にでてくる山吹の髄である。あの長い白い(先端のところだけ赤や緑の彩色がしてあった)髄を、すこしづつ切って、舌でちょっとしめらして穴につめてポンとうつ。旧い文章を読んでいると、つい昔のことがなつかしくなる。