「時間の不思議 - 中村雄二郎」日本の名随筆別巻90人間 から

 

「時間の不思議 - 中村雄二郎」日本の名随筆別巻90人間 から

 

時間の不思議というのは、時間を意識するとそこにいろいろ不思議なことがあるということだ。昔のある賢者も、《時間とはなにかは、他人からきかれなければ知っていると自分は答えるが、他人から聞かれると知らないと答えざるをえない》という名言を吐いている。時間というのは、このようにスタンスがたいへん取りにくい。しかも、その不思議さは、時間の本質と結びつき、それをよく表わしている。例はいっぱいあるけれど、身近な例を三つ取り上げて考えていこう。
第一にこんなことがある。多くの人は、中年を過ぎると、若いときにくらべて、月日の経つのがはやく、時間が早く過ぎ去る、とあせり出すようになる。また、《光陰矢の如し》という古人のことばをつよく実感するようになる。たしかに、一般に人間は、年をとるにしたがって、いっそう時の流れをはやく感じるようになるものだ。むろん、他人事としてだけ言っているのではない。
いったいどうして、こんなことが起こるのだろうか。また、このようなあせりから逃れるすべがあるのだろうか。まず、若いときにはほんとに月日の経つのが、時間が流れるのが、遅かったのかどうか、考えてみよう。大人になってから、月日の経つのが早くなったと思う人も、若いときにくらべて、物理的な時間の流れが早くなった、とは思っていないだろう。となると、当然、時間の感覚あるいは意識が違ってくることが問題になる。だが、ひとはあまり、なぜそういうことになるのかを考えようとしない。
実をいえば、若いときにひとが時間の流れをおそく感じる理由は、二つある。その一つは、彼が、肉体的にも精神的にも、成長過程にあるため、多かれ少なかれ、明日を待ち侘び、両親をはじめとする大人たちにも将来の可能性を期待されて、未来に生きているからである。未来に生きるとは待つことであり、待つとき、時間は引き延ばされるのである。
理由のもう一つは、彼が、乏しい経験のゆえに、知らないこと、初めて出会うこと、驚かされることが多く、日々を新鮮に生きることができるからである。義務化され制度化された学校教育によって、学ぶことが苦痛になっている場合もあるだろう。しかし、教育あるいは学習の本来の働きから、あるいは、次第に大人の世界に入っていくことから、彼が受ける刺激は大きい。
だから、若いときひとが時間の流れをおそく感じるのは、当然のことであり、しかも、その当時は彼は、そのことをそれほど嬉しいとも、自分たちの特権だとも思っていない。むろん、時代によって子供が大人になるのを心待ちにする時代と、それほどでもない時代、さらには大人になりたからない時代がある。それでも、子供時代が生物的にも文化的にも、このように未来に生き、多くの新鮮な刺激を受けていることにはかわりがない。

こうした事実を考えれば、逆に、大人になって時間の流れを早く感じるのは当然のことであり、なにもあせるには及ばないのである。にもかかわらず、大人になってから、とかくあせるのは、過去の自分の生活や行為に対して、不満を持つからであろう。だがそれは、多くの場合、実は、〈とりかえしのつかない過去〉を口実にして、大人になって初めて彼の前に開かれた多くの可能性を生かさず、放棄するものなのである。
時間の不思議さを感じる第二の例としては、こういうことがある。大人になってからでも、たくさんの仕事を次々に片付けたときに感じる時間と、所在なしにぼんやりと過ごしたときに感じる時間とをくらべてみる。すると、時計上の長さは同じであっても、たくさんのことをやっていた時間の方があっという間に経ってしまう。そして、ほとんどなにもしていない時間の方がときに長く感じられるのだ。なぜだろうか。
ふつうの考えでは、たくさんの仕事をてきぱきと片付けて有効に時間を過ごしたときの方が、時間の長さを有益に使ったのだから、長く感じてもいいはずである。その反対に、なにもしないでただぼんやりと過ごしたときの方が、何もしてないのだから、あっけなくたって、短く感じてもいいはずである。
ところが、そういうふうにはならない。どうしてこのように、大人にとって、あるときには時間が短く感じられ、あるときには長く感じられるのだろうか。それについての私の考えはこうである。手がかりになるのは、〈共通感覚〉つまり私たちの五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)をつらぬき統合する感覚のことだ。昔から時間を感じるのはこの根源的な感覚だと言われてきた。
日々の行為に際して、この感覚がいきいきと活動するとき、私たち人間は充実した時間を生きることができる。というのも、この共通感覚は私たち一人ひとりの心の奥の自己につながっているので、そのとき私たちは、そのときどきの行為を手ごたえのある経験として自分のうちに取り込むからである。
他方、次々に多くの仕事を処理し、片付けるのに忙しくて、あわただしい時間を送るときには、〈処理する〉とか〈片付ける〉とかいうことばに表われているように、私たちの活動は概して表面的な実用性の原理でなされている。そこでは共通感覚を働かせる余地がないので、時間は内面の自己に触れずに手ごたえのないものになり、あっという間に経ってしまうのである。一見矛盾するようだが、なにもかもうまくいってハッピイになり、うわずったときに、時間が早く過ぎるというのも、同じ理由によるものである。

今度は、時間が長く感じられる場合であるが、これには二つの種類がある。一つは、時間が長たらしくて辛く感じられる場合であり、もう一つは、充実感をもってその長さをゆったり愉しめる場合である。
辛く感じられるのは、なにかを苛立たしげに待つ場合であるが、その極端な例として、台風などで新幹線が何時間も途中で立ち往生して、閉じ込められるときのことを考えてみよう。こういうときには、ことが順調に運ぶべき通常の時間が断ち切られた上に、狭い室内に空調も働かず閉じ込められるのだから、まったく閉口してしまう。
このようなときに時間が長く感じられるのは、早くこういう状態から解放されて、目的地に行きたいとか、自宅に帰りたいとか思うあせりが、いちばんの理由である。しかし、それに加えて、車内での肉体的・精神的な苦痛という悪条件がある。こんなことになれば、共通感覚はさいなまれてしまうために、時間の流れはいよいよ停滞し、引き延ばされてしまうのである。
それに対して、時間の長さをゆったりと愉しめる場合の典型としては、旅先などであまり込んだスケジュールも立てずに過ごす時間であろう。そういうときには、日常生活の惰性化した時間から断ち切られて、ふつうの意味では無駄な時間のうちに、かえって心が開かれ、共通感覚がいきいきと働くからである。
時間の不思議さが感じられる第三の例としては、こういうことがある。誰にも経験があると思うが、日々の生活あるいは時間の流れのなかで、することなすことが万事うまくいくときがあるかと思うと、なにをやってもうまくいかないときがある。ことの勢いでやってうまくいくこともあるし、慎重に準備してやったからといってうまくいくとは限らない。そして、うまくいかないのを下手に意識してあせると、ますますうまくいかなくなってしまう。どうしてこういうことが起きるのであろうか。
一般にはそのことは、《調子が狂った》とか、《勘が狂った》とかいうことばで言われている。しかし、こんなことになるのは、時間に関係づけて、もう少し突っ込んでいえば、出来事のリズムつまりは時間の流れをうまく捉えきれないためであり、そのリズムに乗れないためである。その点で、最近私は、なにかの仕事をする上でも、他人とコミニュケーションをする上でも、〈リズムの共振〉ということの重要性をつよく感じるようになった。
このリズムの共振というのは、わかりやすくいえば、ラジオやテレビのチューニングつまり波長合わせのようなものだ。波長合わせの場合と同様に、この共振も、ただ一方的に相手の波長やリズムに自分を合わせるのではない。そうではなく、あらかじめ自分の方からもある波長あるいはリズムを発振して、いわば網を張っておき、そこに相手を引き込むのである。
たとえば、野球の試合で相手側の投手の投球に対して打者が〈やまを張って〉勝負に出るのも、相撲の立ち合いで相手の力士の〈出方を読んで〉とっさに自分の出方を決めるのも、訓練された予知能力によって初めてできることだ。この予知の仕組みを形づくっているのが、私のいう引き込みによる〈リズムの共振〉なのである。そしてそれは、精神=身体的な全人間的な働きであり、五感の完全な統御を必要としている。だからここでも、時間は共通感覚と結びつくことになるわけだ。