「俳句をつくろう(抜書) - 仁平勝」俳句をつくろう から

 

「俳句をつくろう(抜書) - 仁平勝」俳句をつくろう から

切字は説明したい気持ちを断ち切る(P31)

では、なぜ「や」「かな」「けり」は切字なのでしょうか。これらの語を用いると、なぜ「十に七、八は自ら句切るる」のでしょうか。先の例のように、切字を使っても切れるとはかぎらないとすれば、この素朴な疑問はじゅうぶん考えてみる価値があります。
連歌俳諧の指南書を読むと、そこで切字とされているのは「や」「かな」「けり」だけではありません。連歌では十八ともに二十二ともいわれ、俳諧になるとその数が増えています。たとえば、助動詞の「つ」「ぬ」「ず」、助詞の「ぞ」「か」「よ」なども切字になっています。
そのなかで、「や」「かな」「けり」が代表的な切字として残ってきたのは、それがとりわけ有効な切字と思われたからで、今日でも重要な役割を果たしています。ですから、わたしたちが切字とはなにかを考えるには、この代表的な三つがあれば例としてじゅうぶんでしょう。
まず文法的にいうと、「や」「かな」「けり」にはどれも詠嘆の意味があります(「けり」は回想の意味も含みますが)。つまりこれらの語は、詠嘆を表現することによって意味の流れを停止させ、そのことが五七五という短い音数律のなかで、切れを生み出してくるのだと考えられます。
ただしこれらを切字として用いる場合、必ずしも詠嘆の表現が意識されているわけではありません。切字として用いられる過程で、詠嘆という本来の意味は弱められ、むしろ逆になにか思い述べるのを抑制するように働いています。
切字としての「や」「かな」「けり」は、詠嘆という本来の意味が弱まることと引き換えに、新しい機能を手に入れたのです。それはなにかというと、ものごとを提示する機能であると思います。
詠嘆の助詞や助動詞は、自身の感動した対象を述べたあとにつけますが、それらが切字として用いられる場合は、自分がどのように感動したかを説明するのでなく、感動したものごとをそのまま提示しようとするのです。
感動というものは大きければ大きいほど、言葉で説明するのが困難になります。これはだれもが体験していると思いますが、ならばいっそ感動の対象を提示すれだけで、野暮な説明はしないというのもひとつの手です。俳句とは、ある意味でそういう表現の方法であり、切字の役割は、その効果を高めることにあるといえます。
先のところで、切字は散文的な意味の流れを断ち切ると書きましたが、これは逆にいえば、説明したいという自身の気持ちを断ち切るためでもあります。つまり切字とは、散文的な意味を断念する意志の表現であり、説明を断念することが、かえって相手の関心を対象のほうへ引き込む作用をするのです。

「自分の思いを述べようとしない」ということ(P88)

さて第Ⅱ部は、具体的になにをどう詠むかという話に入ります。ここは実践編ですから、理論よりは実際の作品を例にして、俳句的な表現のコツをつかんでみたいと思います。プロローグで俳句の定型を格闘技の型にたとえましたが、その型をうまく身につけるポイントといってもいいでしょう。
まず最初に注文があるのですが、しっかり型が身につくまでは、守ってほしい心構えがあります。それは、自分の思いを述べようとしないことです。とくに日頃からもっている感想、意見、信条、思想、そういったものを排除するよう心がけてください。
もちろんストレートに思いを述べた俳句というのもあります。先にその例を引いてみましょう。

降る雪や明治は遠くなりにけり(中村草田男)

おそらくもっとも有名な俳句のひとつですが、「降る雪」をきっかけにして、中七以下で〈明治は遠くなってしまった〉という作者の思いを述べています。しかしこれは簡単なようにみえて、かなり高度な技なのです。
決まり手は上五の「降る雪」です。しんしんと降る雪にたいして、遠のいていく明治というイメージの配合が絶妙で、そのことが一句の価値を決めています。けれども、なぜ高度なのかと聞かれても、その理由をうまく説明しにくいのです。だから高度なのだと思ってください。
あえて分析すれば、雪が降る日はいつもと街が違って見えます。また、雪が音を吸収してあたりが静かになるので、それだけ感慨を誘いやすくなります。そんなことから目の前の街が、ふと作者の子供時代の風景と重なってきたのかもしれません。あとは理屈を超えた世界になってしまいます。
ここで上五はなんでもいいわけではありません。ですからこういう句を手本にして、季語のあとに自分の思いを述べれば、それで俳句になると考えてもらっては困るのです。ちなみに、一句に切字が二つ使われていますが、これも本来は禁じ手です。格闘技なら、危険なので真似しないでください、というところでしょうか。
話を戻して、なぜ思いを述べるのを避けたいかというと、俳句のもっともおいしい部分を捨ててしまうからです。俳句のおもしろさはむしろ、自分がそれまで考えたり感じたりしなかったことを、ふと目にした光景がきっかけで発見するところにあります。
だいいち俳句のような短い形式では、なにか思いを述べようとしても、大したことはいえないのです。たんに「悲しい」といっても、悲しさの内実は表現されませんし、いま引いた句にしても、明治は遠くなったというだけでは、せいぜい明治生まれの感傷と思われるだけで、不特定読者に感動を与えることはできません。それが作品として成り立っているのは、くどいようですが、「降る雪や」の力なのです。思いを述べないようにといいながら、あえてこの句を引いたのは、ここで逆に季語の力をあらためて確認したかったからです。
俳句にかぎらずおよそ自己表現とは、わたしたちの心の内側にある個人の世界が、表現を通してある普遍性に結びつかなければなりません。そのためには、個人の世界が、普遍性に向けてジャンプすることが必要になります。しかし、俳句は短いために、助走する距離がないのです。
季語は、いうならば、その助走を省略する仕掛けにほかなりません。季語はそれぞれ季節という普遍性につながっていますから、助走距離がなくても、いわば表現の跳躍力があらかじめ備わっているのです。
さらに季語には、先人たちの解釈が積み重ねられているものがあります。これはどちらかといえば伝統的な季語ですが、うまく使えば、ちょうど冷凍食品を解凍するように、そこに染み込んでいる詩的なエキスがにじみ出てきます。
もっとも季語だけでは俳句になりません。そこで季語をどう使うかが問題になります。ここではその方法を、大きくふたつにわけてみたいと思います。すなわちひとつは写生、もうひとつは取合せです。
写生や取合せは、自分の思いを述べることを避ける手段でもあります。というのは、季語にこれらの方法を組み合わせると、俳句はたった十七音ですから、もう自分の思いを述べる余地がなくなるわけです。そうした意義も知っておいてください。

俳句と歌謡曲(P208)

もうひとつ、俳句と隣り合っている通俗なものに歌謡曲があります。先の標語はかたちは同じでも、その言葉は俳句的な表現の対極にありますが、逆に歌謡曲のほうは、かたちは違いますが、心情的に紙一重だといっていいでしょう。
プロローグのところで、五音と七音の組み合わせは日本の伝統的な詩のリズムだといいましたが、じつはもうすこし正確にいうと、それは同時に歌謡曲のリズムでもあるわけです。このリズムは、近世でいえば小唄や都々逸に代表され、今日では歌謡曲(とりわけ演歌)に引き継がれています。
つまり俳句は、いわば定型の根っこのところで、歌謡曲を愛する心情とつながっているのです。いくらか独断的にものをいえば、歌謡曲が好きでない人は、たぶん俳句の五七五という定型にもなじめないと思います。
ただし俳句と歌謡曲の違いは、歌謡曲は、たとえば七五調のリズムならそれが何度か繰り返されますが、俳句の五七五には、同じリズムの繰り返しがないということです。これは決定的な違いで、その繰り返しがないというところに俳句の定型の本質があるのです。
つまり俳句の定型は、その快いリズムに惹かれながら、その繰り返しを断ち切っているのです。わたしはそれを、表現のストイシズム(禁欲主義とでも訳すのでしょうか)と呼んでいます。このストイシズムによって、俳句の言葉は通俗の場所から飛躍するのです。
謡曲もまた、標語とは別の意味で、通俗であることを本質としています。ただしそれは、必ずしも歌謡曲の言葉(歌詞)が通俗であるという意味ではありません。すぐれた歌詞の例として、わたしの好きな「石狩挽歌」を引いてみましょう。

海猫[ごめ]が鳴くから ニシンが来ると
赤い筒袖[つつぽ]の やん衆[しゆ]がさわぐ
雪に埋もれた 番屋の隅で
わたしゃ夜通し 飯を炊く
(以下略)

作詞はなかにし礼ですが、安易に人の感情に訴える言葉は使わず、鰊[にしん]の群れがやって来る場面を、「海猫」や「赤い筒袖」によって淡々と描写しています。ちなみに「鰊群来[にしんくき]」は春の季語ですが、「夜通し 飯を炊く」などというくだりは、それこそ俳句的な場面に通じるものがあります。
言葉としては、現代詩として書かれたとしても通用するでしょう。ただ現代詩と違うのは、ここで七音と五音の組み合わせという定型的なリズムがあることです。そして作詞者は、そのリズムに歌謡曲のモチーフを見出しているのです。
人はそういうリズムの繰り返しに、うっとり身を委ねたいときがあります。まして歌謡曲は、そこにメロディが加わります。この「石狩挽歌」を浜圭介の曲で北原ミレイが歌えば、わたしなどはつい目頭が熱くなってしまいます。
しかし一方、そういう心地よさから距離をおいて、ストイックになってみたいときもあるでしょう。そして俳句は、そのストイックな感情に対応しています。このふたつはどちらも人間として自然な感情であって、たぶん交換することはできないのです。