「プロローグ-俳句への招待 - 仁平勝」俳句をつくろう から

「プロローグ-俳句への招待 - 仁平勝」俳句をつくろう から

定型詩であり古典詩であるということ

みなさんは俳句という詩型について、どんなイメージをもっているでしょうか。四季の季節感を表す詩だという人もいるでしょうし、またある人は、世界でもっとも短い詩だと答えるかもしれません。わたしが周囲からいろいろ聞く体験では、このふたつはけっこう一般的なイメージだと思います。
しかしこのどちらも、じつは俳句の本質的な特徴ではありません。では、その本質的な特徴とはなんでしょうか。それは俳句が定型詩だということです。
「定型」とは詩のリズムのことです。日本語の詩は、言葉の音数がリズムをつくりだすので、これを音数律といいます。この音数律があらかじめ決まっているのが定型詩で、つまり俳句は五七五の定型詩ということになります。
これにたいして、現代詩には特定の音数律がありません。この形式を自由詩といいますが、わたしたちがふつう「詩」と呼ぶのは、いうまでもなく自由詩のほうです。そして、この自由詩と定型詩との違いが、俳句の入門においてきわめて重要になります。
もちろん定型詩も自由詩も、詩であることに変わりありません。けれども、すこし過激にいえば、この両者では詩というものの価値観が違うのです。
たとえば、自由詩に慣れ親しんできた人は、詩にとって形式と内容とどちらが優先するかと聞かれれば、たぶん内容だと答えると思います。しかし定型詩では、五七五の形式のほうが大事なのです。
でも、内容よりも形式が大事だといわれたとき、みなさんは素直に納得できますか。できない人のほうが多いのではないでしょうか。だとすれば、ここでまず自分の価値観を変えなければなりません。そういわれて、もし天動説から地動説に変わるようなショックを受けるとすれば、それだけでも俳句に入門する価値がありそうです。
形式が大事だというとき、定型についてもうすこし説明を加えておく必要があります。先に、音数律があらかじめ決まっていると書きましたが、今日では日本の定型詩をつくる音数律といえば、じつは五音と七音の組み合わせしかありません。
これは長い歴史のなかで自然に生まれてきたもので、いわば日本の伝統的な詩のリズムなのです。五七五という俳句の定型も、こうした伝統のなかで決まってきたもので、だからこそ大事なのです。
特定の音数律といっても、五七五は飽きたから七五七がいいとか、すこしおまけして六八六にしようとか思っても、それは定型にはなりません。詩の定型とはかならず伝統的であり、伝統的でない(新作の!)定型詩というものはないのです。つまり定型詩とは、そのまま古典詩であることを意味します。
なぜ五七五なのかは、のちほどあらためて述べたいと思いますが、すくなくともその根拠は、今日の時代に生きるわたしたちの感性のなかにはありません。純粋に古典的なものです。自由詩にたいしての定型詩であり、現代詩にたいして古典詩であること。それが俳句の存在意義にほかなりません。

 

まず型を身につけることから

わたしたちには自己を表現したいという欲求があります。その欲求を満たす表現手段として、これから俳句を学ぼうとしているのです。ここであらためて、それを俳句入門の前提として確認しておきましょう。
いきなり冒頭から、内容よりも形式が優先するという話になりましたが、これは俳句が自己表現の手段であることとけっして矛盾しません。むしろ自己表現がうまく成立するには、形式こそが重要であり、俳句はそのための魅力的な形式なのです。
自己表現とは、自分のなかにあるある得体の知れない感情に、なにか一定のかたちを与えることです。それは自分の心の一部を対象化することであり、いいかえれば、内面にある世界を普遍化することになります。そしてその普遍化されたものを、さまざまな人が共有できるのです。
自己表現の方法には、ほかに絵画や音楽もありますが、俳句は文芸ですから、絵や音でなく言葉によって自分の感情にあるかたちを与えるわけです。
言葉はだれもが使っています。ですから使い慣れているようですが、これが自己表現の手段となると、すこし勝手が違ってきます。いくぶん話が抽象的になっているので、具体的な場面をひとつ例にしてみます。
たとえばある冬の朝、起きて庭に出てみたら、庭一面真っ白に霜が降りていました。そこで家のなかにもどって、家の人に「庭に霜が降りているよ」といって教えてあげました。これは自己表現ではなく、たんに事実を報告する言葉です。
けれどももしそのとき、相手が「ああそう」と応えただけで済んでしまったとしたら、たぶんそこで不満が残るでしょう。なぜなら自分は、その風景にちょっと感動したわけで、そのことを伝えれば、相手もきっと感動してくれると思ったからです。この不満が、すなわち自己表現の欲求なのです。
その欲求を満たそうとすれば、言葉の使い方を変えなければなりません。つまり事実を報告するためでなく、自分の感動にかたちを与えるために、言葉のモードを変えなければなりません。そこで言葉との格闘が開始されるのです。
いま格闘という言葉を使ったついでに、格闘技を例にとってみましょう。柔道でも空手でも、自己流でやみくもに闘っても強くなりません。およそ格闘技には型があり、強くなるためにはまず、その型を覚えることから始めるのです。
文芸にも、多かれ少なかれ型があります。俳句のような定型詩は、その型がきわめて明確で、俳句の型はすなわち五七五だということになります。柔道や空手で、型が身につくまで練習を繰り返すように、俳句が上達するには、言葉を五七五にあてはめることを何度も繰り返すのです。
たとえば空手の型を覚えるとそれだけで空手の格好がつくように、五七五に言葉をあてはめれば、それでもう俳句の格好になります。これはけっこう嬉しいことで、そこに俳句の入りやすさがあるといえます。
空手の型を覚えたばかりのころは、まだ動きがぎこちないように、俳句も最初は言葉がぎこちないのですが、何度も繰り返していくうちに、だんだんさまになってきます。そしてそのうちに、いろいろな状況にたいして型が応用できるようになるのです。
また格闘技にかぎらずスポーツでは、上手な選手の真似をすることが大事です。これは文芸にもいえることで、俳句も同じように、うまい人の技を真似ることをぜひすすめます。そうした意味でこの本でも、できるだけ作品を多くあげていきたいと思いますが、まず手始めに、こんな句を紹介しましょう。

秋晴の運動会をしているよ(富安風生)

「北海道縦断、車窓」という前書がありますが、乗っている列車の窓から、小学校かどこかで運動会をしているのが見えたのです。あるいは乗客のだれかが、「あ、運動会をしているよ」といったのかもしれません。これなら、それこそ先の「庭に霜が降りているよ」と同じように、たんに事実を報告する言葉です。
そんなごくふつうの言葉を、そのまま五七五にあてはめたのです。するとそけに、七・五のリズムが加わってきます。さらに、上五に「秋晴の」と付け加えました。省略のきいた言葉で、これは逆に五七五という定型がないと出てきません。
どうでしょうか。それだけで読む者には、青く澄み切った空と、遠くのほうで運動会をしている風景が見えてきて、声まで聞こえてくる気がしませんか。まさに型だけでつくったような名人芸といえるでしょう。
俳句に入門する第一の心構えは、まず五七五に全幅の信頼を置くことです。そこにまるごと身をあずけることで、あなたにも名人芸が生まれるかもしれません。

 

反[アンチ]個性のすすめ

ところで、自由詩と定型詩とでは、どちらが自分の個性を表現するのに適していると思いますか。たぶんだれもが自由詩と答えるのではないでしょうか。定型とはもともと個性の反対概念ようなもので、しかも俳句のような短い形式では、なおさら個性を表現できそうにありません。
さて、ここが大事なところです。わたしたちは一般的に、個性の表現というものが普遍的に価値をもつように考えがちです。けれども、そういう価値観が成立したのはたかだか近代のことなのです。五七五という定型はそれ以前に生まれたものであり、当時の人々にとって、詩はけっして個性を表現することではなかったのです。
先に述べたように、俳句は古典詩ですから、そうした近代以前の価値観を引き継いでいます。その意味では、個性の尊重が叫ばれる今日の時代に逆行しているといえます。ですから俳句への招待は、じつは同時に、反[アンチ]個性のすすめでもあるわけです。

利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる

引いたのは、萩原朔太郎の「雲雀の巣」と題する詩の一行です。利根川を盗人のようだと思うのは、だれにも共通する感覚ではありません。その意味できわめて個性的な表現といえます。ここには作者の故郷にたいする屈折した気持ちが表れていますが、読む者はそれを読みとることで、「ぬすびと」という個性的な比喩に共感するのです。
ちなみにこの詩は八十行以上におよぶ長編詩で、引用部はその終わり近くに登場します。つまり作者はこの一行を書くために、そこまで多くの言葉を費やしているのです。こうした表現の方法は、俳句では通用しません。

流れ行く大根の葉の早さかな(高浜虚子)

一方この作品には、個性の表現は見られません。初冬の川を大根の葉が流れていくのを見て、作者はそこに流れの速さを感じとっています。こうした風景は、だれもがすぐにイメージを共有できるでしょう。俳句はこの一行がすべてですから、そうしたイメージの共有が、そのまま読む者の共感につながらなければなりません。
さらにいえば「大根の葉」の背後には、上流で大根を洗っている人の姿が浮かんできます。その像を通して、流れていく大根の葉の「早さ」は、きびしい冬を迎えようとする人々(そして作者自身)の生活感覚に、どこかで通じているようにも思えます。
このような比較は、詩としての優劣をいうためのものではありません。ここではただ、これからみなさんを招待する俳句の世界が、反[アンチ]個性の上に成り立っていることを確認しておきたかったのです。先に俳句を格闘技にたとえましたが、型を身につけることは、さしずめ反個性の訓練だと思ってください。
もちろん個性は大事です。けれどもわたしたちは近代以降、個性的になろうとやっきになり過ぎていた気もします。ですからたまには、そうした個性信仰からすこし距離を置いてみるのもいいことです。
そもそも本当に個性的といえるのは、いつの時代もほんの一部の人たちであり、残りのわたしたち圧倒的多数は、みな似たり寄ったりの個性(とあえて呼ばなくてもいいもの)をもって生きています。だとすれば、圧倒的多数のほうにこそ価値があるという考え方も成り立つはずです。
そして俳句は、その圧倒的多数を支持する文芸です。さらにいえば俳句は、個性というものがしばしば幻想であることを気づかせてくれます。そして反個性という場所から、これまで気づかなかったような自己表現の世界が生まれてくるのです。もしかするとその場所は、現代において貴重な精神のオアシスかもしれません。