「孤独力のベースはノルアドレナリン - 齋藤孝」孤独のチカラ

 

「孤独力のベースはノルアドレナリン - 齋藤孝」孤独のチカラ

人は、ノルアドレナリンで不快、セロトニンで安定、ドーパミンで快感を感じる。多少のグラデーションはあるにせよ、基本的には人間の気分はその三つに大きく支配されている。
リラックスした心地いい時間に浸るという意味では、女性たちが培[つちか]ってきた孤独ノウハウは完璧だ。ただ、あれほど快適なひとりの時間には、穏やかなセロトニン系の平安状態しか作り出せないと思われる。男性のミニカーやフィギュアへの愛着、つまり〈おたくな状態〉は、ある理想的モデルを所有することによる快感が大きい。それらを愛でているときにはドーパミンが出ているはずだ。
このように、ひとりでいても心地いいばかりで、不快さがまるでないというのでは、不遇を成長の糧にするような孤独力なは結びつきにくいだろう。
一方、私が青春期に爆発させていた孤独の根源にあったものは、当時の自分に対する不満感、孤立している不快感にほかならない。自分を認めてほしい、もっと力があるんだと声を限りに叫んでいるのに、返ってこないこだまような虚しさ。私はそのことに絶えず苛立っていた。これがノルアドレナリン状態だ。
つまり、ノルアドレナリンという不快感も、うまく使うと人間らしくなる。「いつもセロトニン神経が働いて落ちついています」、あるいは「いつもドーパミンが出てハイテンションでごきげんです」というのもいいが、ノルアドレナリンのような不愉快さの源も、そこから逃げたい、成長して乗り越えたいと事を成す原動力になることがある。
たとえば、芥川龍之介太宰治など多くの作家は、反骨や気概など常識や世俗に対する不機嫌さを抱え込んでいて、そから何かを生み出してきた。
もっと時代を遡ってみる。夏目漱石もその一人だ。彼は国費留学するほどのエリートだったが、孤独の力を期せずしてロンドンで味わってしまった。いくら語学堪能でも、文学を読み解くという意味ではネイティブにかなわない。英文学の世界では、自分はどこまでいっても傍流だと悟ったとき、彼は引きこもりのようになってしまう。「倫敦塔」は、そのころの漱石の苦しみをそのまま写し取ったような、ロンドンの冬空さながらの暗さがある。

およそ世の中に何が苦しいと云って所在のないほどの苦しみはない。(略)生きるというは活動しているという事であるに、生きながらこの活動を抑えらるるのは生という意味を奪われたると同じ事で、その奪われたを自覚するだけが死よりも一層の苦痛である。(夏目漱石「倫敦塔」)

その一人きりの苦痛、そのときにためたエネルギーが、結局は次への飛躍の重要なステップになった。生涯、彼の創作活動を支え続けた。若いときの孤独は、汲めども尽きぬ泉になる。苦労は買ってでもしろと言われる。孤独もまた自ら買って損はない。