「歯医者 - 戸井田道三」戸井田道三の本 1 こころ 原題:「身中の虫」

 

「歯医者 - 戸井田道三」戸井田道三の本 1 こころ 原題:「身中の虫」

 

このところ、一週間に一度ずつ、横浜までこんだ電車で歯科医にかよっている。
私は元来、歯の質はいいほうだった。ところが肺結核でしばしば喀血したたびに絶対安静をつづけねばならず、食事のあとの口掃除もできなかったことが原因で、以前はなかった虫食いが少しずつできた。
三十歳を過ぎたころは、いつのまにか奥歯がやられていた。戦争になった時点で、将来栄養不足がおこることにそなえて、歯をよくしておかないと結核に負けると思って、東京の医師に総点検して、手入れをしてもらった。おかげで戦後しばらくまで歯科にかからなくてすんだが、その五、年とともに歯ぐきがやせたり、金冠がはずれたりというあんばいで、少しずつ故障がでてきた。今住んでいる療養地で近所の医師にみてもらっていたが、あいにくこの人が亡くなってしまった。新しく未知の医師にかかるのがおっくうで、その後は放置しておいた。
ちかごろは、あっちこっちがわるくなり、臼歯が幾本もぐらぐらで、困った困ったといいながら、それでも、まだ歯科へいかなかった。戦争になったころの用心のよさと見通しのたしかさはもう私には縁のないものと自分できめていた。
歯は直したが、命のほうがもたなかったというのではなんのための歯の手入れかわからないというのが、私の理屈であった。あのいやなガリガリという脳にひびく治療をがまんし、入れ歯で歯ぐきを痛くして、少しまえよりましになったと思うころにはもう死んでしまい、遺族が焼き場で灰の中からわずかばかりの金を、「これが歯だったのよ」とひろい出したところで何になろう。私が歯医者にかからなくても誰も迷惑するわけでもないそう思ってがまんしていた。
ところが、思いのほか命のほうが長もちして、まだもう少しもちそうな気がしてきた。すると変に欲がでて、若いときにやろうと思いながら見すててきたテーマを、これからやってみようかなどと、つい色気が出るのである。たぶんダメだと、自分の限界を承知してはいるものの、それでも万一ということもある。宝クジにあたるくらいの可能性がないわけではない。やれなくてもともとと、変に自分の尻をたたきたくなるのである。
こうなると恩給も年金もない老後の不安など忘れて、もっと長生きして憎まれ者、世にはばかろうと覚悟して、歯医者へゆくこととはなったのである。
時間と体力の経済から一番近くの歯科へいったとたんに臼歯をぞろぞろと抜かれてしまった。手っとり早く十回も通院しないうちに入れ歯をつくってくれて時間の倹約にはなったが、どうも食事がうまくない。気になってしかたがないので、入れ歯をはずしてみたら、そのほうが具合がいい。でも前歯で豆をかむような不自然さがある。
さてどうしたものだろうと、気にしていたら、姪がスキーで知りあった歯医者さんで上手な人がいろから、ぜひみてもらえという。おじさんの本もよく読んで、おもしろいからと同じ本を十冊ずつ買って知りあいにくばってくれているのよ、と念をおした。
義理と人情とはおもんじるほうの私は、そういう話には弱いのである。私の本を買いあげて、たのまれもしないのに宣伝してくださっているお医者さんなら、かからずばなるまいと勇気を出していくことにした。
このお医者さんが横浜なのである。ちかごろは能も芝居も滅多に見ず、よほどの用がなければ列車に乗らぬ状態だが、一大決心とともに六月を歯の治療月間ときめてかよいはじめた。
なるほど名医なのかもしれない。私の歯をひとめ見て、百人に一人くらいのいい歯だとほめてくれた。そして上の歯と下の歯をかみあわさせてカチカチという音をきき、それだけで何番めの臼歯が強くあたっているなどという。
近所の医者のつくった義歯を入れていったのだが、それをけずったり足したりして、ようすをみながら直しましょうと、長い時間をかけてみてくれた。
おもしろいことに「具合がわるければ昼間はずしておいてもいいですが、寝るときははめておいて下さい」といわれた。歯は食べるために必要だから、昼間はめているべきもので、寝るときははずしてもいいのかと思っていた私は、まさに正反対のことを注意されて驚いてしまった。説明をきくと、なるほどそうなのである。
眠っているあいだも生きているのだから、義歯をはめておくと、それだけ馴れるのだそうである。ふつう痛くなければ、自分のどの歯がわるいとか欠けているとかいうことはわからない。意識していないのである。痛くなってはじめて歯が痛いと、歯の存在を意識する。それとおなじで、眠っているあいだに義歯を無意識化する作用が進行するらしいのである。
これは相当重要な問題をふくんでいるように思われる。

われわれは、働くために休むのか休むために働くのか、とよく問題にする。人生の目的如何の答えしだいで、それはちがってくる。もし価値を視野のそとにおけば、働くためとか休む(楽しむ)ためとかきめる必要はない。昼と夜とが交代するように労働と休養は交代しながら自然な生がくりかえされるだけだ。休養のかわりに睡眠をもってきても、おなじだ。働くために一定の睡眠が必要だというだけである。しかし、本来人間は眠っているのが本当の姿で起きて働いているのが仮りの姿だといえないこともない。働きかたは種々雑多だけれど、眠りかたは人間みなおなじだからである。
赤ん坊のころは特によく眠る。「ねる子は育つ」などと格言だかコトワザだか、よくきく言葉もある。胎内でも眠っていたのかもしれない。生まれてからあとも、その眠りの延長で眠っているのが常態で、醒めているのが特別な状態だとしたら、ちかごろ眠ってばかりいる私は老来、嬰児にかえって常態を獲得しつつあることになる。そのうち永眠して絶対に特別な状態である起きて働く状態にはもどらないはずである。
こう考えるのは、私自身正直いって、語呂あわせの詭弁でないこともないと思っている。考えるということをやっているのが眠っているあいだではないからである。だが、考えるということ自体があまり信用のできないことであることもたしかだし、考えずに済めば、ことによるとまちがいということはないのかもしれない。

(ここまでにしておきます。)