「エントロピーとの闘い - 柴田元幸」河出書房新社 暮らしの文藝ー片づけたい から

 

 

エントロピーとの闘い - 柴田元幸河出書房新社 暮らしの文藝ー片づけたい から

 

エントロピーに関する入門書を読んだとき、数式を使った本格的な説明の部分は歯が立たなかったが、「机の上を片付けるには多大なエネルギーが必要だが、散らかすには何のエネルギーも要らない。これがエントロピーである」という趣旨の比喩的説明は大変よくわかった。自分の机の上がどうして片付かないのか、科学的根拠を与えてもらった気がした。本を読んでいて、あんなに救われた思いがしたことはない。
一個人の机の上であれ、地球全体であれ、閉じたシステムにおいて、世界は時間の流れに沿って秩序から無秩序へ向かう。すなわち、エントロピー(でたらめさ)は時間とともに増大する。物理の法則のなかで、生活感覚的にこれほど共感できるものもほかにない。そう、机の上は片付かないのだ。そう、部屋は散らかるのだ。文明とはしょせん、エントロピーとの負けいくさにおける、時間的にも空間的にも部分的な勝利にすぎない。そう考えると、とても気が楽になる。
そんなわけで、大学院生のころ、院生仲間だったH氏の部屋を訪ねたときは大きな衝撃を受けた。何しろ、部屋じゅうどこも、実にきちんと片付いているのだ。物一つひとつが、ちゃんとあるべき場所にある感じ。「どうしてこんなに片付いているの?」と訊くと、「簡単ですよ。物を新しく買うごとに、その置き場所を決めてしまうんです」と単純明快な答えが返ってきた。「でも、置き場がどこにもなかったら?」「いまある物を何か捨てて、置き場を作ればいい」
なるほど、と思ったが、いざ真似しようとしてみると、僕の所有物の大半は、もともと定まった居場所をどこにも持たず、流浪の民のように部屋のあちこちを転々としていることが判明した。それらすべてに定住の場を与えるのは、パレスチナ難民問題を解決するより困難だった。それにまた、新しく入ってくる物たち(それらは僕の意志とは無関係に次々と流入してきた)に定住地を与えようとすれば、先住者との摩擦が生じないわけにはいかない。どちらかを追放するだけの政治的決断力も僕にはなかった。やはり科学的真理には逆らえない。結局、エントロピーが増大するに任せ、Let It Beの精神で生きることにした。
とはいえ、それにしても、あまりに片付かなさすぎるんじゃないか。いくらなんでも、ここまで散らかさなくてもいいんじゃないか。本、書類、学生のレポート、自分の原稿、ペン、鉛筆、付箋紙、消ゴム、電子辞書やパソコンのコード類、ミルキー、ティッシュペーパー、コーヒーマグ・・・いくら整理に努めても、物たちはたやすく外界から侵入し、本来の場から逸脱し、居座るべきでない場に居座り、こちらがそれらを必要とするときには巧みに行方をくらます。どうも僕の机の上では、エントロピーの法則が五割増しで機能しているように思えてならない。

あまりにエントロピーが増大すると、さすがに仕事にならない。『現代用語の基礎知識』を見ても、「エントロピーの小さい状態は、エネルギーの大きい状態と同様に仕事をする能力を持つ」。僕の場合、エントロピーはきわめて大きい状態にあり、かつ僕自身のエネルギーはきわめて小さい状態にあるから、「仕事をする能力」が著しく欠けていることが科学的に確認されるわけであるが、それでも時には、負けいくさと知りつつ、秩序へのささやかな意志を発現させる。要するに、片付ける。燃えるゴミと燃えないゴミをそれぞれ袋に入れ、ビンやカンを隣の団地の集積所に持っていき、回収日に備えて紙ゴミを紐でしばると、心が洗われる思いがする。自分が少し真人間になった気がする。だから、昨年新聞で、貯めたゴミを一念発起して捨てようとしたもののあまりの量に近所のゴミ集積場に出すこともままならず、仕方なく裏山に捨てたのがバレて逮捕された会社員の話を読んだときには、心から同情したものである。
この会社員の貯めたゴミは重さにして六五〇キロだったが、一九七九年、シカゴに住む六十七歳の女性が貯め込んだゴミは総量十トンに及んだ。『週刊ブレイボーイ』七九年十一月二十日号によれば、悪臭の苦情を受けた衛生局の係員が行ってみると、家じゅう高さ一メートル半のゴミの山。一九四〇年代にはじまる古新聞、キャベツを中心とする生ゴミ、無数のビンやカン・・・下からはベッドが二つ出てきた。この女性、三十年にわたり清掃婦として働いたが、帰ると毎日くたくたで、自分のゴミを出す気力はとうてい残っていなかったという。
だが、物を貯め込むことにかけては、一九〇九年から四七年にわたってニューヨークで隠遁生活を送り、総量一二〇トンに及ぶ物品を貯め込んだコリヤー兄弟の右に出る者はいまい。この驚くべき兄弟については、別章を設けて語らねばならない。