(巻九)生涯を土手より眺む西日かな(鳴戸奈菜)
12月12日土曜日
死に支度いたせいたせと桜かな(小林一茶)
と、細君にせっつかれて浅草の寺町にある、とある寺院にvirtual reality墓地の“予備商談”に行った。
水洟や仏観るたび銭奪られ(草間時彦)
対応して下さったお坊様も、私の不信心、無宗教的な世界観を直ぐに察知されたようで、「こいつに説法してもだめだ!」と見定めて頂けたようである。
お坊様さま曰く、「当院は墓所販売会社でもなく、葬儀社でもない。仏のお導きに従い、当院と縁を持つことである。そこのところを理解した上でお考えになりなさい。」
やはり、宗派不問の置き場を探した方がよい。そのほうが私も安心して成仏、いや消滅できる。
お釈迦様の教えは、キリスト様やモハマド様の教えと同じように勿体無い教えでごさいましょうが、できれば寺とか僧侶とかいうエージェントを介さずに教えをいただきたく、願うところでございます。
その一帯は寺町であり、ある寺の門先に写真のお言葉が掲出されておりました。九合五勺を空にしたのか?まだ五勺残っていると考えるようかホトトギス。
一升瓶立てて目刺の皿一つ(小林申忠)
そんなひと仕事の後、参宮橋で開かれた東アの船管理部有志の忘年会に参加し三十年以上にわたる旧交を暖めた。
このくれもまたくり返し同じ事(杉山杉風)