「樋口一葉の多声的エクリチュール・その方法と起源(その「2」) - 倉数茂」ハヤカワ文庫 異常論文 から

 

樋口一葉の多声的エクリチュール・その方法と起源(その「2」) - 倉数茂」ハヤカワ文庫 異常論文 から



本節では、亀井秀雄のことばを手掛かりに一葉作品の文体的な異様さについて考えてみたい。引用した部分の直後で、亀井は一葉の文体をバフチンの述べるポリフォニーにも似ていると指摘している。どういうことか。
にごりえ』、『たけくらべ』に顕著だが、一葉作品では誰のものともしれない声(意見)が一つのセンテンスの内部を乱れとび、重なり合うということが起きる。
にごりえ』は虚無的な心情を抱えながら下級の銘酒屋で私娼として働くお力に焦点化した物語だが、その第五章は次のように始まる。並んで客を待つ女たちの「白首」(おしろいを濃く塗りつけた娼婦)を「白鬼」と言い換え、店を地獄へと見立てている。

誰れ白鬼とは名をつけし、無間地獄のそこはかとなく景色づくり、何処にからくりのあるとも見えねど、逆さ落しの血の池、借金の針の山に追ひのぼすも手の物ときくに、寄つてお出でよと甘へる声も蛇くふ雉子[きぎす]と恐ろしくなりぬ。さりとも胎内十月の同じ事して、母の乳房にすがりし頃は手打手打[ちようちちようち]あわわの可愛げに、紙幣[さつ]と菓子との二つ取りにはおこしをお呉れと手をだしたる物なれば、今の稼業に誠はなくとも百人の中に一人に真から涙をこぼして、聞いておくれ染物やの辰さんの事を、昨日も川田やが店でおちやつぴいのお六めと悪戯[ふざけ]まわして、見たくもない往来へまで担ぎ出して打ちつ打たれつ、あんな浮いた了簡で末が遂げられやうか、

ここで男たちの歓楽の場である銘酒屋が、客たちを誘い込み破滅させる無間地獄へと喩えられている-主要人物の一人源七がお力に入りあげた挙句自分の店を失って日雇いに没落していることと呼応している-わけだが、このアイロニカルな修辞を駆使しているのは誰なのか?もちろんそれは語り手だと言うことはできるだろうが、同時に娼婦たちを卑しめ、憎悪しているカタギ(源七の妻お初のような)の意見でもあるように思える。しかしこの文章はそのまま、赤ん坊の誕生儀礼(新生児に紙幣とお菓子を選ばせて将来を占う)を経由して、自分の馴染みの心変わりをなじる女の声に移行していく。この後はまた別の離れて暮らす子を思う女の詠嘆に続くのだが、この女たちが誰なのかはわからない。お力でないことは確かだが、では同僚の女たちなのだろうか。そうしたことは明らかにならぬまま、読者の脳裏には、貧に責められて体を売らざるを得ない数かぎりない女たち(彼女らも無間地獄で苛まれているのだ)の姿が浮かび上がるのである。
こうしたことが不自然でなく行われるのは、下町というまだ強固な近隣コミュニティが存在し、絶えず無数の噂が行き来する濃密な空間を舞台にしているからに他ならないが、文語文では地の文からセリフをカギカッコでくくり出す必要がなく、また句読点なしにどこまでもセンテンスを続けていけるという条件も働いている。

近代以前の文語文の物語では、地の文(草子地)で語り手が物語内の出来事や人物の主観的な論評を加えることがよく行われる。そのため近世までの物語は、たとえ見かけは三人称であっても、実は潜在的な一人称なのだという見方もある。言語学者の橋本陽介は、これを無声映画の映像と弁士の関係に喩えている。語り手はあたかも弁士のように、物語の場面が目の前にあってそれを解説するかの如く語っているのである。あるいは落語家が頭の中にある噺を、アドリブを交えつつ話すようにと言っても良い。こうした「上演モデル」では語り手は物語と距離をおいて、その内容を茶化したり論評したりすりことができる。一方、言文一致以降の近代文学は語り手の主体性を消去し、透明な言語によって読者の眼前に直接場面が現れることを目指した。いわゆる三人称客観描写である。こちらを「現前モデル」と呼ぶとしよう。
上演モデルから現前モデルへの転換を劇的に示す証左としてしばしば取りあげられるのが二葉亭四迷の『浮雲』である。日本最初の近代小説とされる『浮雲』は次のように始まる。

 

千早振る神無月ももはや跡二日の余波[なごり]となった二十八日の午後三時頃に、神田見附の内より、塗渡[とわた]る蟻、散る蜘蛛の子とうようよぞよぞよ湧出[わきい]でて来るのは、★[いず]れも★[おとがい]を気にし給[たま]う方々。しかし熟々[つらつら]見て篤[とく]と点検すると、これにも種々[さまざま]種類のあるもので、まず髭から書立てれば、口髭、頬髭、腮[あご]の鬚、暴[やけ]に興起[おや]した★[ナポレオン]髭に、狆[ちん]の口めいた★[ビスマルク]髭、そのほか★[ちやぼ]髭、貉[むじな]髭、ありやなしやの幻の髭と、濃くも淡[うす]くもいろいろに生分る。

 

二葉亭は落語や語り物を見本としたのだから当然とも言えるが、この髭づくしは典型的な上演モデルだろう。ところが一篇から三篇まで書き進めるうちに、二葉亭は語り手の存在を目立たないようにしていく。
日本語では語り手の主観性はとくに語尾に集中的に現れる。判断や断言を示す「-だ」「-である」、呼びかけや詠嘆を示す「-よ」「-ね」などだ。「です」「ます」も語り手の存在を感じさせてしまう。そこで言文一致体の語尾はもっともニュートラルな過去形「-た」に落ち着いた。
語尾「-た」は、語られる出来事を客観的な時空の一点に位置づけ、読者の目の前で起きているかのように感じさせる効果がある。つまり言文一致リアリティ(現前性)のための装置である。上演モデルが、語り手を意識させ、既知の物語をレトリックを含めて味わいなおす(語り物では聴衆は物語の大まかな内容をあらかじめ知っている)のにふさわしいとしたら、現前モデルは読者を物語の渦中に放り込み、未知の現在進行形のできごととして体験させる(サスペンス)。
さらに橋本は二葉亭が欧文の「主語+述語」構造を持ち込んだと指摘している。
「(二葉亭のツルゲーネフの翻訳が)『浮雲』第一篇の講談調と異なるのは、一つひとつの文が主語と述語を持ち、短くなっている点である。本来の和文の文の切れ目というのは、欧米の「主語+述語」であらわされる単文とまるで違うものであったのは、『浮雲』第一篇の引用例をみても明らかである。四迷はロシア語小説の翻訳という形で、主語と述語を持つ単文という単位を導入しているのである。」
言うまでもなく、一葉作品ではこの「主語と述語を持つ単文」は成立していない。近代的な文体では、行為とその行為主、発話内容と発話者、心情とその主体が明確に関係付けられることで、事物や人物の具体性が立ち上がり、個別の歴史が一点に置き直される。しかし一葉では主語も発話者も明確に示されず、現実に発話された内容なのかそれとも内部の心情なのかも曖昧なまま長文が続いていく。このいつまでもセンテンスの終わり(語尾)が来ないまま、出自のはっきりしない複数の語りが連鎖していくところが一葉の文体の特徴なのだ。それは話者がメタレベルから自由に物語にコメントを加えていく戯作文ともちがう。一葉では次々に新たな声、異なるイメージが重層していくため、異様な濃密さと速度感が生まれる。実際に一葉の原文と、現代語訳との違いを見てみよう。詩人の伊藤比呂美による訳である。

 

おい木村さん信さん寄つてお出よ、お寄りといつたら寄つても宜いではないか、又素通りで二葉やへ行く気だらう、押しかけて行つて引きずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯[ぶう]なら帰りに吃度よつてお呉れよ、嘘つ吐きだから何を言ふか知れやしないと店先に立つて馴染らしき突かけ下駄の男をとらへて小言をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか言訳しながら後刻に後刻にと行過るあとを、一寸舌打しながら見送つて後にも無いもんだ来る気もない癖に、本当に女房もちに成つては仕方がないねと店に向つて 閾[しきい]をまたぎながら一人言をいへば、高ちゃん大分御述懐だね、何もそんなに案じるにも及ぶまい焼棒杭と何とやら、又よりの戻る事もあるよ、心配しないで呪[まじない]でもして待つが宜いさと慰めるやうな朋輩の口振、力ちやんと違つて私しに技倆[うで]が無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番が、何たら事だ面白くもないと肝癪[かんしやく]まぎれに店前へ腰をかけて駒下駄のうしろでとんとんと土間を蹴るは二十の上を七つか十か引眉毛に作り生際、白粉べつたりとつけて唇は人喰ふ犬の如く、かくては紅も厭らしき物なり、

 

「ちょっと木村さん、信さん、寄ってってよ、寄ってってっていってんだから、寄ってってくれたっていいじゃないの、また素通りして二葉やへ行く気なんだろう、おしかけてってひきずってきてやるからそう思いな、ほんとにお風呂屋なら帰りにきっと寄ってってよ、まったくうそっつきなんだから、何をいうかわかんないだから」
店先に立って、女がまくしたてる。つっかけ下駄の男にむかって、小言をいうような口ぶりでまくしたてる。馴染みらしい男は怒りもしない。言いわけしながら、あとであとでと行き過ぎる。それを女は、チョッと舌打ちしながら見送って「あとでもないもんだ、へ、来る気もないくせに、ほんとに女房もちになっちゃしょうがないね」と店のしきいをまたぎながらひとりごとをいった。
「高ちゃんなにをぐちぐちいってんのよ、そんなにやきもきしなくたって焼けぼっくいと何とかだってば、またよりの戻ることもあるわよ、心配しないで、おまじないでもして待ってればいいんだよ」と慰めるようにもう一人の女がいった。
「力ちやんとちがってあたしにはテクニックてもんがないからね、一人でも逃しちゃったら惜しくってさ、あたしみたいな運の悪いのは、おまじないだってなんだってききやしない、あーあ、今夜もまたアブレっちゃう、なんだってこうなんだろ、あー、くそおもしろくもない」
女は店さきへ腰かけて、きもちがおさまらないように駒下駄のうしろでトントンと土間を蹴っている。年は三十前後、眉毛を引いてある、生えぎわもつくってある、白粉もべったり塗りたくってある。唇も、たった今人を食った犬みたいに、染めぬいてある。

以上から現代文(言文一致文)にするために三点の操作が原文に加えられていることがわかる。(1)地の文から科白がカギカッコで括り出される。(2)長文が句点で区切られ短文へと分割される。(3)地の文中の価値評価的なコメントが適宜省略される。この三点はみな、どこまでも続いていく文章を西洋語の「主語+述語」構造に置き換え、それによって文中の行為と語りの「主体」(主語)を明確化する効果を持つ。そうしないと、現代文として読めるものにはならない。
これらの操作によってはるかに読みやすいものになるが、一葉の原文が持っていた複数の語りがオーバーラッピングしながら進む独特の効果は失われてしまう。
言文一致体(俗語革命)の政治的役割についてはベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』以降、膨大な研究が蓄積されている。その基本的な主張は政治的なレベルでの近代国家の設立に呼応しつつ、国民的一体性(ネーション)を醸成する役割を担ったというものである。ただしアンダーソンが強調したのは、空間的に離れた見知らぬ個人を同じ国民共同体の同胞とみなすような態度を、新聞・出版ジャーナリズムと小説が創り上げたということであって、俗語革命のテクスチュアルな部分にまで分析が及んでいたとは言い難い。では言文一致にはどのような政治的意味があったのか。
言文一致体は、文章の語り手を透明で不可視の存在とすることで、語られている物事-登場人物の心情など-がありありと読者の前に現前することを可能にした。だが物語る機能としての語り手が不可視になるとと不在になることは違う。語り手は透明化されてむしろ匿名の誰でもありうるような-読者がそこに自分を容易に投影できる-普遍的な人=国民になったと言える。それは人々が戸籍をはじめとする近代的統治によって、特定された個人化される時代に即応していると言えるだろう。
さらには、物語内話者として暗黙に想定されている語り手は異性愛的な欲望を持った成人男性であったとすら言っていいかもしれない。それこそが家父長的な明治社会にあって、もっともニュートラルな存在であったろうからだ。
しかし一葉作品の話者はそのようなものではありえない。なぜなら、語りは透明ではなく、そこにつねに多用な他者の声が勝手に入り込み、話者を複数に分裂させてしまうからだ。それは春をひさぐ女たちの恨み節であることも、逆にそうした女たちを値踏みし、冷笑する男たちの声であることもある。都市の下層にひしめくそうした具体的な声に一葉はテクストを解放した。
亀井秀雄は、一葉のこの特徴的な語り口を「癒着的半話者」という呼び方をしている。「この話者は、いつも誰か別な人間の立場へ視点を移動しながら、そのことばに自分の声を重ねて表現を進めてゆく」
いわばこれは口寄せ的な語りと言うべきではないだろうか。語り手が物語全体を俯瞰する近世の上演モデルでも、話者が消えて場面それ自体が前景化する近代の現前モデルでもなく、空虚な話者の位置に切実で生々しい他者の声が次々に入り込んでおのれのことを語り出す生霊のひしめく空間を一葉は作り出した。しかしなぜ一葉はこのような異様なエクリチュールを生み出すことができたのだろうか。そこに何か具体的な、例えば同時代の霊と身体についての技法や動向が関わっていた可能性はないだろうか。

(了)