(巻九)頭たれ耐えてをりしが椿落つ(モーレンカンプふゆこ)

1月23日土曜日

これはもう物語ですね。

中公新書「百人一句」高橋睦郎著を読んでいます。奥付けが2008年版となっていますので、俳句への興味はそのころ起こったようです。
百句百人の紹介はそれとして、巻末の対談「希望としての俳句ー高橋睦郎・仁平勝」を改めて読み多くの教えをいただいています。
そのひとつに「本歌取りがなければー」という論題での対談があります。
高橋:...人間本来、自分自身のオリジナルというものは何もないわけで、どこかから全部もらってきているわけです。たとえば、「おはようございます」という言葉だって、誰かが使った言葉を、あるとき覚えて引用しているわけで。だから、引用というものを拒否したら、会話というものは、ましていわんや文芸というものは、ほんとうに貧しい世界になってしまう。」

もうひとつは「上品と卑俗の繰り返し」の中で
仁平:...言水の「凩の果はありけり海の音」があります。これは、もうほとんど現代俳句に近いのですが、山口誓子には「海に出て木枯帰るところなし」という句があります。誓子は言水を意識していたのか、していない のか。
高橋:しているでしょうね。意識しているけれども、言水の句には、まだムーディーなものを何か感じて、もっと即物的というか、非情というか、そういうふうにつくったつもりではあったでしょうね。
仁平:余談ですが、去年、「鳩よ!」という雑誌で、若い俳人で句会をやったとき、パロディーという題を出したんです。そうしたら、大高翔という若い女性が、この誓子の句のパロディーで、「海に出て綿菓子買えるところなし」という句をつくりました。若い人がそういう句をつくるということは、没個性のほうへ向かって、将来の俳句に期待が持てそうな気がするんですけれどもね。


私は対談から、自分の句をブログに載せて楽しんでいる範囲であれば名句に学び類句を作って行くのもよいのではないかと思い始めました。少なくとも、作らないよりははるかによいと。