(巻外我が青春記)マフラーの裏の小さき英国旗(太田うさぎ)

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10月27日木曜日

福翁自伝』を読み進めている。感臨丸同乗での訪米、訪欧使節随員としてのパリ滞在の辺りまで来た。漱石の『坊っちゃん』と『福翁自伝』が青春痛快物語やその手のテレビ・映画の原点なのか?

余にも“青春痛快小説”はある。墓碑代わりのブログに刻むことにいたそうか。

偏差値の都合で江東区高橋にある墨田工業高校に潜り込んだが、旋盤も溶接も鋳物も実習をやればヘマばかりで、理数系の学科もよろしくないという有り様であったので、メーカーに就職すると人生を誤ることは明らかであった。そういう訳でその頃は入り易かった公務員を目指し、“あなたは港の外交官”という今にして思えば詐欺のような謳い文句に乗っかって税関吏になった。
その頃の税関では高卒を大量に採用していて、世間知らずの田舎者をそのまま世に出すこともできず、九ヶ月ほど市ヶ谷の研修施設に集め一般教養と実務の基礎と“酒の飲み方”を教育した。東京出身は余一人で純朴であるとされていた九州や北海道が半分はいたと思う。
その頃の大蔵省は流石で、講師の先生は民法学習院の遠藤教授、行政法は横浜国大の荒教授など著名な先生方であったが、特に刑法の中央大学下村康正教授が本論の間にお話される余話に刺激を受けた。「時を惜しみて労を惜しまず」と諭され、「これからは英語が必要になる。諸君が中堅職員になるころには英語ができるとできないとで人生が大きく変わる。」とのお話に感じ労を惜しまず、お金もそちらに回して、勉強というものを初めて自分から始めた。
研修を終え、羽田空港に配属された。新米の仕事は外国から到着した飛行機に行き、乗客が降りたあと機内を徘徊し、ゴミ箱はもとよりトイレまで漁って、破り捨ててある領収書を拾い集めることである。丁度海外旅行が自由化された頃で誰もが御定法の如く時計や指輪などを買ってきて、いざ日本に着くとなると税金が惜しくなり、時計はボケットに入れ、レシートを破り捨てるのである。
拾い集めたレシートの断片をを継ぎ接ぎして検査台にいる先輩に旅行者に先回りして届けるという実にセコい仕事であった。正に断片情報の積み重ねである。その頃の余は紅顔の美少年であり、スチュワーデスから機内サービスの余りのチョコレートなどを手渡されたりすることあったが、赤面し、やっと“サンキュー”を言える程度であった。
刺激は励みとなり、当直明けには夜学で通っていた青山学院の図書館で勉強し、宮益坂上にあった英会話学校でジョン・キャドマン先生から教えを受けた。キャドマン先生はブリティッシュ・カウンセルから派遣されて横浜国大で講師をされていて、英会話学校で小遣いを稼いでいたようだ。
学生が多い中で真面目に一生懸命勉強する小吏に好意を持たれたようで、“兎に角、何でも書いて持っていらっしゃい。”と言い、エッセーとも日記ともつかないものを差しで添削教授いただいた。
そのキャドマン先生が夏休みにイギリスへ休暇で帰ると言う話を聞き、同行させて頂くことをお願いし快諾を得た。
当時の最も安いロンドンまでのフライトはアエロフロートでモスクワ経由で往復40万円弱であった。つまりボーナス三回分に相当したのだ。
先生と同じフライトでロンドン、ヒースローに着いたが、そこからは別行動となり、リック一つでさてと困った。泊まるところなど手配していない。若さである。
空港のホテルに泊まるつもりはなかったので、現金五万円を替えて市内行きのバスに乗った。(腹巻きにはトラベラーズチェックを縛り付けてある。)バスは日の落ちて行くロンドンの市街に入って行くが、少々心細くなってきた。
後ろの座席にいたほぼ同年の女性に、“バスの終点には宿泊案内所はありますか?”とやっと解って頂ける英語でお尋ねしたところ、“ついてらっしゃい。”と言ってくれた。バスが終点に着いて、案内所へ向かいかけたところで、“うちに来れば?”とのお誘いである。まだまだ世の中が平和であり、余が美少年であった頃の話である。
バスの終点が何処かも分からず、これから行く先が何処かも知らず、彼女が誰かも存じ上げず、そして彼女はこの少年の素性を一切知らずに地下鉄の階段を降りた。
一度乗り換えて、その駅(ブリンツクロス)に着いたのは夜の9時を過ぎていた。そこまでの途中で彼女は酔っ払いに呼び止められたりしたが、そのようなとき、彼女は余の腕を掴み側に引き寄せるなどしたし、駅からも余がそれまで経験したことのない接近した空間を保っての道行きとなった。
着いた家には彼女と同年代の女性が四五人居た。ニュージーランドから来た若い女性たちで一軒借りて共同生活をしているのだという。ガールズのほかに家主の四十代の男が居ることは後日判った。
ガールズは余を歓迎するでもなく、忌避するでもなく、敢えていえば風が吹き込んだくらいにしか思っていないという感じであった。
彼女は台所に簡易ベッドを用意してくれて、あとはそのままである。
翌朝、彼女もガールズは出勤でバタバタしている。彼女が“これからどうするの?”聞いてくれたので“スコットランドエジンバラへ行って、それから南に下りながら見物するつもりだ。キャドマン先生の実家がウェーキフィールドなのでそこにも立ち寄る”と話した。そして“一週間くらいリックを預かって貰えませんか?”とお願いすると“いいですよ”と言うことになった。
彼女がガールズにスコットランドへの列車の発車駅を訊いてくれた。ガールズの中にそちら方面へお勤の方、中では年長者、がいて、そのお姉さんが途中駅まで連れて行ってくれることになった。
そのユーストンで降りた。地図に従いヴィクトリア線でキングスクロスへ行けばよいのだが、切符売場で“ビクトリア線はここですか?キングスクロスへ参りたい。”と尋ねても意が通じない。VとBの発音が本当に重要なのだと体で理解するまでにやや時間がかかった。
どうやって10時発のエジンバラ行きの列車に乗れたのかは思い出せないが、列車が動き始めたときにアメリカ人の学生二人とドイツの若者一人、それに余の四人がコンパートメントにいた。アメリカ人はスコットランドにゴルフを観に行くと言っていた。ドイツの若者はベルリンのデパートで働いているとのことで休暇を取っての一人旅だという。列車はニューカッスルに停車しただけで、車窓から北海を眺めているうちに3時ころエジンバラに到着した。アメリカ人学生はさらに北へ向かうので此処で別れ、ドイツ青年と余は先ず宿を確保しようと構内の案内所に入った。
余は日本を出てより風呂に入っていなかったので風呂に入りたかった。「安くて、きれいで、安全で、風呂のあるBB宿を教えていただきたい。」と申し込んだところ、「バスに乗る必要はない。歩いて行けるところにある。」と返事が返ってきた。「もう三日も風呂に入っていないので是非とも風呂のあるところを頼む。」と申し体を洗う動作を示したところ、「Oh,Bath!」と声を上げられてしまった。「th」の重要さも身をもって学んだ次第である。若者と宿に向かい、女主人から何度も“ベッドに腰かけるな”と注意されてから部屋に通された。同胞が以前ベッドでも壊したのであろうか?
夕方から若者と街に出て見物の後パブのようなところで夕食を取った。テーブルで相席になってお兄さんとお喋りをしているところに左派系の新聞売りが立ち止まり購読を勧誘した。面白い半分で一部買おうとしたら、お兄さんが「止めとけ。」と口を挟んだ。そのあとお兄さんと新聞売りとの間で大口論となったが、これが階級闘争かと勝手理解して観戦した。宿に戻り風呂を味わってから就寝。
翌朝、宿で朝食をいただき若者と別れる。午前中は城を見物し、たまたまスェーデン国王が訪問していて、頑丈な騎兵群に前後を守られた馬車行列も見物して、午後の列車でグラスゴーに向かった。
この辺から記憶が朧になってくる。グラスゴーで何を見たのか覚えていない。グラスゴーで一泊後、朝の列車でヨークシャーのウェーキフィールドまで下り、駅頭キャドマン先生の迎えを受けた。
キャドマン先生は奥さんの実家に滞在していて、義父義母ともに暖かく迎えてくれた。義母はドイツ人とのことで、余の英語は義父のドイツ語程度だと評したが、要は大したことはないということのようであった。義父は自慢のMBE(Member of British Empire)のメダルとネクタイを披露してくれ拝謁のときことなど話してくれた。夕食後義父と先生に連れられてパブに行き、義父の友人などに紹介された。その一人のネクタイが先ほどのMBEのと似ていたので「貴殿もネクタイからMBEとお見受けいたす。」と申したところ、「このパブのタイだ。」とのことで一座大笑いとなった。帰りに新聞紙で包まれたフィンガー・チップスを食べながら戻った。
翌朝、先生の見送りを受けて列車に乗りバーミンガムへ向かう。昼食をそこで摂り、オックスフォードに行き泊まる。翌日午前中、大学を見物し列車に乗る。ロンドンに戻るには早いのでレディングから西へ向かう列車に宛もなく乗った。以前見た映画に“エクセター”という巡洋艦があり、同じ名前の町があったのでそこで降りてみた。この町で初めてホテルに泊まってみた。古いホテルで“喫煙室”とか“電話室”とか色々な名称部屋があり、なぜか“心の旅路”という映画を思い出した。町全体も落ち着いていて大聖堂を自慢していたので翌朝これを見学した。
エクセターからポーツマスに行き“戦艦ヴィクトリア号”を見学し、ブライトン経由でロンドンに戻った。
お土産はないので、ちょっと高価な果物をぶら下げてブリンツクロスのガールズの館に戻り、「もう一晩泊めて貰えないでしょうか?」とお願いしたところ、あと一週間で帰るのならここに居てよろしいと言って頂いた。
翌日からは朝出勤の如く市内に観光に出掛け、夕方戻るという行動パターンとなり、ロンドン塔、タワーブリッジ、国会議事堂、セントポール寺院、戦争博物館ではベラ・リンを知り、バッキンガム宮殿、幾つかの公園、テートギャラリーではターナーの夜景に心打たれ、ハロッズの入口のライオン像を見てそう言うことであったのかと納得し、映画館に入り“エマニエル婦人”を鑑賞し、大英博物館、カムデンのマーケット、テームズの川下りとグリーニッジ、ダブルデッカーなどなど一通りの観光スポットを巡って果物やお菓子をぶら下げて 館に戻る日々を送った。
ロンドンの夏は遅くまで暮れず、ガールズも夜を楽しむ。その仲間に入れて貰えたのが有り難かった。ある晩はガールズ揃ってのミュージカル観劇となり、渋い劇場で“ブラック・ミカド”を見た。舞台はアフリカであるがミカドだけに刀を振り回す同胞も登場した。ある晩は家主と彼女が郊外にドライブに出掛けご一緒させていただき田舎風のパブでシェリー酒などいただき、ある晩は彼女と市内の街角で待ち合わせて夕暮れの繁華街を案内して頂いた。彼女は余よりやや背丈は低くどちらかいえば丸顔であり、容貌は引き締まっている。ある晩はガールズうち揃って近所のパブへ繰り込んだ。ただパブの暗がりで彼女が彼氏らしい奴とキスしているのを見てしまい、袖を濡らしたころには二週間の夢うつつの旅も終わりに近づいていた。
ガールズは去る風に名残も惜しまずであったが、彼女は「また来なさい。」と言って頬にキスをしてくれた。これが余にとって初めてのペックであった。
皆様のご厚意のお蔭でチェックに手を付けることなくヒースロー空港に入り免税店に寄った。日頃、余の英語学習を励まし今度の旅では餞別まで頂いた上司(実名で参りたいところであるが、氏はご健在であり、人様の名を暴露して自分は名乗らぬ訳にはいかない。残念である。先生に迷惑はかかるまい。彼女の名はリネットだと思うが、忘れた。申し訳ない。)にオールドパーを、ほかの土産はカティーサーク、ホワイトホースなどのクラスに抑えて十本ほど買って機内に持ち込んだ。
窓に額を押し付けて眼下のLand of Hope and Gloryに別れを告げた。

写真はキャドマン先生から頂いたネクタイであり、余の勝負タイである。