極楽に行く人 地獄に行く人 ー 水木しげる “解説ー三途の川を上手に渡るには” 横尾忠則

臨死体験をした人の報告書を読むと、きれいなお花畑が眼前に開けていたり、また川が流れていて向こう岸から知り合いの死者が呼び掛けてきたという臨死体験者に共通のビジョンが語られていることが多い。
でもこんなビジョンを見た人は必ずこの世に引き返してきたわけだから、見たビジョンが死の入口であったかどうか定かでないということでこれらの話はここで終ってしまう。
「三途の川」という呼び名はぼく達が子供の頃から誰に教えられたともなく知っていた。死んだら必ず三途の川を渡って霊界に行くということを知っていた。「知っていた」というこの認識は一体どうしてなんだろう。誰かに論理的科学的に説明されたわけでもないのに「そうだ」と思い込んでいるのである。そんな子供の頃の認識が今だに何の疑問も持たないでごく当り前に理解しているぼくなのである。
こんな科学的根拠のない夢のようなデタラメな話は信じられない、という人は信じている人以上に多いのだ現実のような気がする。そんな人にはこの水木しげるさんの本はただのファンタジーにしか思えないかも知れない。または現実逃避の思想だと文句をいう知識人もいるかも知れない。
ぼくはこの本が新書判で出た時すぐ買った。霊界を信じる根拠を得るためというのではなく、こういうテーマに触れることは楽しいからだ。また挿入された絵を観賞して想像的になるという目的もあった。ではなぜ楽しいかというと、死後の世界を知ることで今生きているこの現世をもっと楽しくすることができそうだからである。
死を想うことは何も恐ろしいことや怖いことではない。むしろ生の世界の方がもっと恐ろしくて怖い。そんな生が怖いのも実は死を恐れているからだと思う。その恐れの対象である死や死の世界をもし知れば、この生の世界だって「なあーんだ」ということになってもっと楽しく生きることができるのではないだろうかとぼくは考えるのである。
見える世界がこのわれわれの住む現実であるが、見えない世界は異界と呼んで、一応現実と切り離して考えられているのがこの世界の常識である。常識に価値観を置いている以上、異界などという非常識の世界は何の価値も持たないことになる。しかし水木さんの描かれる世界は完全価値の転換であり逆行しているわけである。
だいたい霊界は現実に逆行した世界と考えてもいいだろう。人間の死そのものが生と逆行しているわけだ。だから水木さんの世界は生と逆行しているといえる。そんな逆行した世界がこんなに面白いということは、この面白さをこの現実に持ち込めば、現実ももっと面白くなるはずではないだろうか。すると、そこで初めて生と死がひとつに結びつくことになり、死も現実の一部であることが感じられるはずだ。
お盆には墓参りをしたり法事を営んだりして、この日は死者を迎え入れて死者を想うことになるが、死者を死者として考えるのではなく、むしろ生者と同一に死者を位置づけることで生死の境界を取り外すことになるのである。お葬式の席で死者に対して語り掛ける多くの人々はまるで生きている人に語るのと同じように語っているのではないか。相当の知識人でもこの時ばかりは死者がちゃんと自分の話を聞いているという前提に立って話している。これがお葬式の席ではなく、書斎で一人ボソボソ死者に語り掛けているとしたら実に気味悪いものだ。だからどんなエライ人でもどこかで生の延長に死が存在していて、自分が無にならないでどこかで存在していたいという願望があるに決まっている。
この本のメインテーマが「三途の川の渡り方」という以上、われわれ生きている者へのアドバイスである。渡ってから先きの話についても多くが語られているが、とりあえず渡り方の問題なのだ。つまりどう生きるかということになる。その生き方によって渡り上手、渡り下手があるのかも知れない。
仏画に「ニ河白道(にがびゃくどう)」というのがある。三途の川に一人がやっと渡れるかどうかという細い橋が架かっていて、川向こうには阿弥陀様が待っていて、橋の手前には恐ろしい獣などに追われながら死者が橋を渡ろうとしているのである。よく見ると橋の上流には紅蓮の炎が燃え盛っているという図である。無事渡れた者は川向こうで阿弥陀様が救ってくれるが、足を踏みはずして川に落ちた者はそのまま急流に流され、再びこの世に輪廻させられるというような意味を説いた仏画である。
上手に橋を渡れば仏の世界の住人になって二度と再びこの寸善尺魔と呼ばれる現世に転生しないで澄むが、下手な者はもう一度ふり出しに戻らなければならないというわけだ。だからこの「三途の川の渡り方」は霊界のガイドブックといえる。それには今生きているこの現世での行いや考えや想いが如何に大切かということの反省にもつながる。
「死んだら死んだ時のことだ、そんな先きのことまで考えて生きるなんてくそくらえだ」といえる人は大したものだか、大抵の人はどこかで死後のことを恐れているに違いない。江戸川乱歩の言葉で「うつし世は夢、夜の夢こそまこと」というのがあるが、この言葉は死後の世界からこの世を見た言葉のように思えてならない。あっちの世界に行って初めて解るこの世の姿に違いない。この三次元こそ唯一の現実だと思っている人間にはこの言葉はちょっと理解しにくいかも知れない。
この言葉の裏には実相はこちらの世界にあるのではなく、向こう、つまり霊界、死後の世界にこそ存在するといいたいのだろうとぼくは思う。そういう意味では実相の姿を知って、その行相をこちらの世界の滋養として受け入れた方が三途の川が渡りやすくなるかもしれない。
臨死体験者が見る川が三途の川かどうかは知らないが、もしそうだとすると、日本にも古くから臨死体験者の報告が存在していたことになる。いやそれ以上に、三途の川の向こうの死の世界の報告まであったことになる。つまり死者との通信によって得られた霊界の情報がちゃんと存在していたはずである。水木しげるさんは創作を通して無意識に死後の世界とコンタクトしておられるのかも知れない。だから語られたり、描かれたりする世界にリアリティーがあるのである。