「死から生への転機 - 奈良本辰也」中公文庫 武士道の系譜 から

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「死から生への転機 - 奈良本辰也」中公文庫 武士道の系譜 から
 

人間、ここでは男性それ自身であるが、その主体性が、精神的には言うに及ばず、肉体的にまで喪失されていったのである。この主体性を復権するにはどうすべきか。彼は、ここで「死に狂い」になることを強調するのである。戦国時代に生きた武士の生き方をとり戻せというのだ。
そうだ、戦国の時代にあっては、人間は自分に頼って生きなければならなかった。どのように強い猛将の下にあっても、戦場で槍を合せて向いあった時は、一人と一人である。相手が倒れなければ、こちらの方が相手の槍の下に伏すのだ。常にそれは一人で死と直面した生き方である。そのなかで鍛えられて生きてきたのが、これまでの武士というものであった。そこに人間の積極性があり、社会に対する責任を持つこともできたのである。
これも『葉隠』に出てくる話であるが、戦場では、如何なる槍の名人も進撃の命令が出たときには眼の前が真(ま)っ闇(くら)になるというのである。此方が真っ闇であれば、敵の方も真っ闇であろう。お互いが真っ闇なやみの中を突っ走っ て進む。そのとき、槍を突くべき相手を失っているのである。その暗いやみが晴れて、人の影が目の前に現われた時、その人影を目がけて槍を突き出せば、そこに対手は倒れるのだ。
問題は、いずれがさきに眼前の人影を見出すかである。その場合、死が恐怖になっていては、そのやみは暗く閉ざされるばかりだ。死は平常心となっていなければならない。即ち、死を悟りとして持つことなのである。いつでも死ぬる覚悟ができているということだ。その覚悟が眼覚めてくるときに、心の冷静が帰ってくる。そこに対手の姿が現われてくるのだ。そのとき、死は転じて生となる。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という言葉は、まことにその死から生への転機を言い得て妙なる真理であろう。だが、そのように、「死ぬ事と見付ける」ことは決して簡単なことではない。日常坐臥に死を思うことなのである。生か死か、二つに一つという場合に立ったならば、迷うところなく死を選ぶ心を養うには「死狂い」になることなのだ。その「死狂い」のなかから、人間の美しい生活の美学のようなものが生れてくる。「五六十年以前迄の士は、毎朝、行水、月代、髪に香をとめ、手足の爪を切って軽石にて摺り、こがね草にて磨き、懈怠なく身元を嗜み、尤も武具一通りは錆をつけず、埃を払ひ、磨き立て召し置き候。身元を別けて嗜み候事、伊達のやうに候へども、 風流の儀にてこれなく候。今日討死討死と必死の覚悟を極め、若し無嗜(ぶたしなみ)にて討死いたし候へば、兼ての不覚悟もあらはれ、敵に見限られ、きたなまれ候故に、老若ともに身元を嗜み申したる事に候」というような心掛けである。
私達は、討ち死の前日に冑に香をたきしめて出陣した木村長門守重成のことを武将の美しい心掛けだと思う。しかし、そうした上方の名のある武将ばかりではないのである。京や大阪がどこにあるかも知らなかったような田舎武士が、このような美しい感情を持って生きていたのであった。それが、あの刀剣や甲冑の素晴しい美しさを生み出したものであろう。それは、ヨーロッパの騎士がつけていた武具と異って、今日の私達の美的感覚に訴えるものをも持っている。「死狂い」という狂気が生み出した、美の感覚とも言うべきであろうか。
それはともかくとして、戦国武士の復権を狂として打ち出したところに『葉隠』の大きな意味があったのである。しかも、日常生活における狂なのだ。これを別な言葉で言えば、東洋的な実存の思想にすべてを賭けるという意味にも連なってくる。だが、この『葉隠』の思想は、恐らく多くの人々には理解されなかったであろう。
それはむしろ、頑冥固陋な田舎武士の考えのようにも思われていた。では、それをさらに新しい時代にまで引き下げて考えてみよう。「思想の偉大さは極端論の中にのみ存する」と、近代フランスが生んだ万能的な学者グウルモンは言っている。彼は、思想の偉大さを厖大な体系のなかにあるとは決して言わなかった。