「荷風散人を悼む - 大佛次郎」講談社文芸文庫 大佛次郎随筆集 旅の誘い から

荷風散人を悼む - 大佛次郎講談社文芸文庫 大佛次郎随筆集 旅の誘い から

永井荷風氏がなくなった。存生中から世間に隠れて暮らしていたが死までが人の目から隠されていた。陶工の尾形乾山が江戸で死んだ時、孤独な老人の貧しい独門だったので、しばらく近所でも知らずにいた。乾山は世間と交流がなかったわけではあるまいから、孤独な死は事故であろう。荷風さんのは自らひそかに求めていた最後だったろう。それほど徹底して孤独で、えらい人だったとは信じられないが、公園の踊子や町の女たちに囲まれての極楽往生だったら、にぎやかでそれもよいとしたろうが、平常口に説き、そうできれはと心ひそかに望むこともあったろう。ひとりぼっちでわずらわされない静かな死だから、荷風さんは肯定されて目をつぶったのではないか?武士でなく文士の最後としてうらやましいようなことである。終りをまっとうしたことではないか?
「冷笑」「牡丹の客」「ふらんす物語」などの荷風さんは、颯爽とした洋行帰りの小説家で、文壇では、新しい西洋花を見せられたような感じだった。
「日和下駄」のあたりまで切れ味はいかにも鋭利である。これが現代の日本や日本人がいやになってしまって、滅びてしまった江戸にいつの間にか逃げ込んでしまう。世間や人間の愚かさをいかに笑うか、であった。生活も市隠の姿を取り、当世ふうの艶隠者と成り果てた。一種の病気のように、人をおそれ、世を警戒し、それも自分は、生きる愚しささびしさをつまみ食いにまぎらせて、小さい世界の結構楽しい生涯ではなかったか?日記を見ると、あれだけ徹底した軍人ぎらい、政治家ぎらいはない。それが感性の上だけのもので、昔の江戸人のようなとうかい[難漢字]した小さい世界のものだったが、その範囲でも知的好奇心の強いこと、心の働きの若々しさは、日本人離れしたもののまま残った。しつこく、一貫している。「雨瀟瀟」は細いしゃれた趣味のものだろうが、「濹東綺譚」になると、骨にしみる人生孤独の寒風が白々と吹込んでいる。
荷風さんは、若い日に書いた「小説作法」の中でアンリ・ド・レニエの作品を小説の手本とすべきだと説いている。レニエという詩人は、回顧的な、また花やかな隠遁な性を持ったひとである。エドモン・ジャルウが書いた評論だったと記憶するが、レニエを論じて過去の時代を小説に書くと、ラブレエふうで陽気で出てくる人物も快活で明るいが、現代小説になると、厭世的な調子を免れ得ぬ、と指摘している。レニエ自身も、過ぎてしまえば人生の物事は苦いが、ほの明るい微笑にくるんでながめられると書いている。レニエが辿ったものは、ギャランなフランスの王朝時代の話か、イタリアのベネチアの花やかだった時代の物語が多い。荷風さんの江戸は決して住みよい所でなく、イヤな思いがいまよりも多かったのは無論だろうが、現実をしゃれのめし、皮肉な諧謔でもてあそんだ江戸人の弱い者の強がりが、荷風さんの現代からのよりどころとなっていた。「腕くらべ」「おかめ笹」も、横合から「見た」小説であって、作者は、話のなかにいない。笑う支度をした傍観者である。
私は若い時から荷風さんの小説の愛読者であった。理由なく、ほれぼれと好きだったのである。しかし「日和下駄」ころまですぐれた文明批評を作中に示しながら、なぜそれをやぼと考えても押通してくれなかったか、と、くやしいのであった。「日和下駄」あたりから後の荷風さんは、小さい庵を結んで、現代の歴史から離れ、貝殻の中に身をかがめられた。青春の時の強い思想の火花は、小説よりも、日記や随筆の中に光を放っているのである。まことに日本的な生き方だった。戦後の日本人に、この趣味や感性の遺伝は薄れたが、変人と見せて世をとうかい[難漢字]したが、実は浮世を住み憂しとする臆病な善人だったのであろう。ご冥福を祈る。永井先生。いまこそ、静かでしょう。いや、静かでなくとも、現世の方が面白いよといわれるだろうか?