「懺悔せずにはいられない - 米原万理」文春文庫 ガセネッテ&シモネッタ から

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「懺悔せずにはいられない - 米原万理」文春文庫 ガセネッテ&シモネッタ から
 

このあいだ、新幹線に乗ったら、隣席の紳士の目つきがあまりにも鋭く曰(いわ)くありげで、こちらも俄然にとらわれてあれこれ尋ねるうちに職業を明かしてくれた。経済犯罪や詐欺師など、いわゆる知能犯を専門にしている刑事さん。根は話好きの人らしく時が経つほどに重い口が滑らかになっていった。
「九九パーセントこいつが犯人だという心証があるのに、最後の一パーセントのところで確実な決め手がなくて踏み込めないってことありますよねぇ。そんなときには、どうするんです?」
「粘りですよ。刑事は、何と言っても粘りです」
「粘りってったて、納豆じゃあるまいし、ただただ粘りがあればいいってもんじゃないでしょうに。いったいどんなふうに粘るんですか?」
「人間てのは、悪いことするとね、それを必ず誰かに言わずにはいられなくなる生き物なんだなあ。黙り通して秘密を墓場まで抱えていくなんて人、オレの担当した事件じゃあ一人もいなかったね。必ず誰か身近な人に話しているもんなんだ。まだ話してなくても、そう長いあいだ黙ってられるもんじゃない。必ずそのうちに誰かにしゃべる。だから粘り強く丹念に容疑者の近辺の人間に当たっていくんだ。そして待つ。一昨日、逮捕にこぎ着けた事件なんて、五年も待ったからねえ」
この話を聞きながら、二〇〇〇年ほど前の古代世界では胡散(うさん)臭い新興宗教の一つにすぎなかったキリスト教が、とくにその一脈カトリックが、中世から現代にかけて急速に発展拡大し、五大陸に多数の信者を擁する有力宗教になりおおせた理由の一つをつかんだような気がした。それは、懺悔(正式には告解という言い方をするらしいが)という名の卓抜なる儀式を発明したおかげもあるのではないかと。
仏教や、キリスト教でもカトリック以外の宗派が行う懺悔は、神仏前で罪を告白し赦しを請うものである。ところが、カトリックでは、司祭の前で、要するに人前で懺悔する形をとる。
凶悪な犯罪までいくのは稀としても、ちょっとした悪事からたあいのない脱線まで、人間、生きていれば非の打ち所のない聖人君子であり続けるはずがない。犯した罪の程度と、その人の性格によって罪悪感や良心の呵責に苦しむ度合いはさまざまだろう。そして、心の重荷を少しでも楽にしたいと思う人間がとりたがる最もポピュラーな方法が、おのれが犯した悪事について別な人間に打ち明けてしまうことなのだ。もっとも、内容によっては、他人はおろか肉親にさえ言えないことがある。いや、そんな場合の方が多いはずだ。絶対に打ち明けた秘密を他に漏らさないような聞き役を多くの人が求めている。そういうことを、カトリック教会は、おそらく、ある日、発見したのだ。
そして、司祭にこの聞き役をさせることにした。厳格に守秘義務を課せられた司祭には、神の代理人として信者の告白に耳を傾け、神の名において赦す権限が与えられる。ありがたみも浄化作用も増すというもの。
プロテスタントは、これに対してあくまでも個人の内面的な悔い改めを求めた。しかし、どうしてもそれでは心の平安が得られないという信者が続出して、結局、牧師への告白を認めたらしい。カトリックの人心掌握術の方に軍配が上がった形になった。自分一人で抱えきれないからこそ聞き手を求めているのに、神や仏に告解せよ、つまりはおのれの良心と向き合えと説くのは、大多数の人々には無理な話だったのである。
つい先日世間を騒がせた一七歳のバスジャック少年の場合は、インターネットのメッセージ・ボードが、懺悔を聞いてくれる司祭の役割を演じていたみたいだ。いや、そこを訪れる匿名の人々が、と言い換えるべきかもしれない。人間を恐れ、人間を嫌悪し、憎みながらも、人間に聞きとられることを求めているのが哀しい。
そう言えば、インターネットが人々を取り込んでいく勢いも、どこか宗教に似ている。