「立食式 - 吉田健一」中公文庫 私の食物誌 から

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「立食式 - 吉田健一」中公文庫 私の食物誌 から

この頃はどういう名前で呼ぶのが本当なのか知らないが大きな所に多勢のものが集って立ったまま飲んだり食べたりする会に出掛けなければならなくなることが時々ある。考えてみると会となれば殆どがその形式のもので、ただ主催者側の挨拶の長さや飛び入りがあるかないかなどその辺のことで多少の違いがあるに過ぎない。つまり、そういう集りに呼ばれては御馳走になっているのであるから悪口を言う積りはないので所謂、宴会料理で先ずどこへ行っても同じものを飲まされて食べさせられてその間中坐っていなければならないのよりも体の動きの自由が利くだけでもこの方がずっと有難い。そしてこの頃の会で出るものは段々御馳走になって行くようで七面鳥の丸焼きがどこからでも一切れ取れる具合になっていたり、氷が箱庭の格好か何かに彫刻してあるのに鰈鮫の卵が盛ってあったりして無暗にそういう会で食べる気になれないのがただ残念である。そのうちにこの種の会に来たものに食べものを入れて持って帰る簡単な容器を渡すという風なことにならないだろうか。併しそうすると今度はその場では持って帰る気がしないというようなことになるかも知れない。 
こういう会には大概バーと呼んでもいいものが出来ていて何度も行っているとそのバーでバーテンをやっている人と初対面ということが先ずなくなる。恐らくバーテンさんの方でも一年のうちにこういう会を幾つも受け持っていて、それでこっちはこっちでそういうバーテンさん達と顔馴染みになるという仕組みなのだろうと思う。その点から言って一つの会でバーがどこにあるのかをなるべく早く確めるのは得なことで、もしそこにいるのにまだ会ったことがなくてもいつか又会うことになる。そうすると何かと便宜が図って貰えるということなのであるが、それとは別にそこにいる人が顔馴染みであってもなくても例えばそこならウイスキーに割る水を自分で加減出来る。或は二種類のウイスキーが出ていればいい方が選べる。こういう会で客扱いが如何に行き届いていてもボーイさんが盆に飲みものを載せて客の間を廻っている時に、このコップのがジョニ赤ですとまでは言わないのである。
ここまで来てやっとどうしてこういうことを書く気になったか思い出した。こういう風に多勢のものを呼んで御馳走する習慣は昔からあった訳で、ただ今と昔の違いを考えるならばそれはそのために使う金の多寡よりも手間の掛け方にあるようである。寧ろ手間を掛けたくても人手がないから金で埋め合せをするのが現状であるということなのかも知れなくて、それで金には換えられないものが確かにあることが解る。例えば昔の茶会ならば殊にそれが昔のことであれば仮にそれが太閤風の大掛りなものだったとしてもそう仰山な出費だったとは思えないが、それが必要だった人手の点では今日では考えられないことであるのみならず、その人手というものの一人一人が何かの意味でボーイさんなどとはいうのとは違った専門家でなければならなかった。更にその場所というのが多くは個人の家で、それが聚楽第というような途方もないもので個人の家の方がその維持に手間が掛る。それはそれだけで人間らしい感じに人をさせるということで、これは新建材とかいうものを百億と使っても望めることではない。以下、食べもねも飲みものも接待係の人間も同じ。
つまり、少し大人数の集りでそこに出て今日は本当に楽しかったと思うというその観念が既に今日では薄れ始めているということである。と言ってしまえば、やはり一種の悪口になるのだろうか。その挽回に努めて、この間どこかの会でスコットランドの近衛の兵隊がその特有の躍りを踊ってみせた。それが恐しく綺麗で手間が掛っていることが解った。