「ケチをモットーにすべし[抜書] - 三島由紀夫」日本の名随筆別巻75紳士から

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「ケチをモットーにすべし[抜書] - 三島由紀夫」日本の名随筆別巻75紳士から

-ケチの話は、こんなふうに並べると、際限がないが、考えてみると、私の周囲にはどうもケチがよほど沢山ゐるらしい。必ずしも金持ばかりでなく、金がなくても、敢然とケチ道を守つてゐる達人も少なくない。かういふ人の信念の固さは立派なもので、ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」などと持ちかけるダラシのないヤカラはゐないことです。個人主義の城壁を堅固に守つて、決して人を世話せず、人の世話にもならないといふ主義のフランス人が、世界的ケチであることは論理的必然である。永井荷風先生は日本における最高のフランス的ケチであり、ハイカラもここまで行かなければ本物ではありません。シャンソンをうたつて、ベレエをかぶつてゐても、宵越しの銭を使はぬ貧乏性が抜けない限りは、本当のフランスかぶれとは云へない。
ケチには又脱俗の精神が必要であります。人に御馳走になつてすぐお返しを考へるやうではいけない。ムダ御馳走をする奴は、哀れむべき虚栄心の強いヤカラで、御馳走をすることがたのしみなのだから、こつちは威張つて御馳走になり、決して恩に着たりしないことである。
一体お返しといふ日本的精神が、公務員の堕落を助長するのであつて、金品をうけとつたつて、こちらは安サラリーでお返しはできないのだから、公務上のゴマカシをやつて相手に利得を与へようなどといふ情けないことを考へず、公然とくれるものはもらつて、何もしてやらなければいい。くれるはうは、やりたくてくれたのだから、こつちはもらつておくだけだ。「いただくものなら夏でも小袖」といふ格言は昔からあります。
日本人は外国を旅行すると、むやみに多額のチップを払つて、ホテルやレストランで物笑ひになる。これは明らかに人種的劣等感のあらはれで、自分の鼻の低いのが気になるから、軽蔑されやしまいかと心配のあまり、「鼻の高い西洋人と同じ待遇をしてくれ」といふ暗黙の意思表示で、バカげたチップを撒くらしい。いくらチップを撒いたつて低い鼻は高くならない。それならいつそ、鼻の高い連中が二十五セントのチップを出すなら、こちらは鼻高に応じて、十五セントですますといふ精神をどうしてもてないのであるか。
この間政治団体呼ばはりで日本ペンクラブを震撼させたケストラー先生は、京都において、見事に西洋人のケチ精神を発揮した。さるバアで、自分の呑んだ酒の値段を暗算してゐたところ、出された勘定書はその数倍に上り、すすめもしない酒をふんだんに呑んでいた女給の分まで払わされるのは怪しからんてあつて、所もあらうに警察にどなり込み、いろいろ談合の末、ケストラー先生の主張する額だけを払ふことで収まつた。
こんな新聞記事を読んで、私はひそかに快哉を叫んだが、世界中どこへ行つたつて、明細書のない、藁半紙の切れはしに¥8,520などと尤もらしく書いただけの勘定書をつきつけられて、一万円札を渡して、「おつりは要らないよ」などと言つて、鷹揚に出て来なければならないバアなどといふ不合理な場所はありません。
フランスの料理屋では、立派な紳士が、食後、「勘定!」(ラディシオン・シル・ヴ-・プレ)と叫んで、それから、老眼鏡をかけて、何分間かに亘つて、詳細綿密に勘定書の点検がはじまります。それでまちがひが発見された時の、喜び方、千万言を費す抗弁と来たら、一つの見物であります。
私も子供のころ倹約といふことを家庭でも学校でもやかましく教へられ、「お前はバヴァリヤの鉛筆なんか使つてゐるが、皇太子殿下は和製のワシ印だ」などと訓戒されたあげく、倹約といふ道徳くさい言葉がすつかりキラヒになつてしまつた。武士道徳における倹約とは、主君の大事といふ場合、主君が破産状態になつた場合、家来が私財を投げ出して主君に捧げなけるばならぬいふ、せのための倹約であつて、究極的に人のためのケチなんて意味がない。倹約よりケチのはうが、はるかに近代的で、ユーモラスで、徹頭徹尾自分のためで、「人の世話にならぬ」といふ自主独立の精神のあらはれなのであります。