2/2「伊達政宗の城に乗り込む-坂口安吾」河出文庫 安吾新日本地理 から

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2/2「伊達政宗の城に乗り込む-坂口安吾河出文庫 安吾新日本地理 から

政宗の支倉六右衛門の海外派遣も見透しの大失敗であった。だいたい彼は海外事情について研究したことがないようだ。これがまた田舎豪傑たるところである。家康が切支丹を禁教するまでには、当時としては出来うる限りの手をつくして海外事情を研究しているいるのである。ウィリアム・アダムスについて幾何学の初歩の手ほどきを受けたというのは、どういうコンタンだか分からないが、海外研究の一助にはなったであろう。多くの面から海外事情をコクメイに調べて、切支丹を禁教しても新教国のオランダと宗教ぬきで貿易できる見究めがハッキリしてのち切支丹を国禁した。新教国と宗教ぬきで貿易できる見究めが立たなければ、にわかに切支丹を国禁しなかったであろう。政宗にはそのような用意や研究は何もなかったようだ。彼は当時のオランダと旧教国が国交断絶、敵対関係にある事情についても正しい認識がなかった。そしてその手落ちによって、つまり彼がエスパニア国王に提出した条件中にオランダとの断交を確約する文章がなかったために、彼の最も希望する新エスパニア(今のメキシコ)との通商は拒否せられてしまった。支倉がまた輪をかけた能なしで、アチラの事情に即応して主人の手落ちを自分の一存で修正し主人の熱望する通商条約をまとめるだけのユーズーがきかなかった。
政宗の本心は宗教をダシに新エスパニアと貿易したいことだった。一方、紹介役のソテロは、日本の布教がイエズス会に牛耳られているのが不満で、自己の所属するフランシスコ会にも司教をおかせ、自分が司教になりたい考えであった。両者の希望は食い違っているが、田舎策師の政宗も、日本渡来のバテレン中でも最大の策師たるソテロも、それは充分心得ていたであろう。要するに両者の希望は別々でも、相助け合って両者の希望を実現すれば足るのである。幕府がソテロの口車にのって動く見込みがないからソテロとしては田舎豪傑の政宗でやってみる以外に手がなかったのかも知れないが、そうカンタンに外国がだませるツモリの政宗が、つまり田舎豪傑であったのである。
彼の本心は、支倉一行が出発しないうちから、すでにイエズス会に見破られていた。司教のセルケイラはイエズス会総長に充てて、政宗の本心はヤソ教ではなくて、通商であり、彼の領地へフランシスコ会の僧が続々くるようになると、家康の怒りをかって政宗は滅亡するだろう、と手紙している。一行の出発前のことである。この予言はまさに図星であったろう。後手専門の田舎豪傑は二三年たってそれにようやく思い当ったのである。家康が長い年月苦心した日本統治対切支丹、日本統治対海外貿易という難問題は、その結論が家康の断となって表明されるまで、田舎豪傑には分らなかったのである。しかしバテレンたちには分っていた。家康のみならず、信長、秀吉、家康三代にわたる日本統治者の共通の悩みであったのだ。秀吉は切支丹の布教を外国の日本侵略の第一段階と速断したが、保守家の家康は自身の侵略精神が稀薄であるから布教を侵略と速断するような軽率なところはなかった。彼は実際よく外国事情を調べたのである。その結論として、徳川家の日本統治を万代不易たらしむには、鎖国がなによりカンタンで、心配のタネがないにきまっているさ。万里の海をへだてた外国が、日本へ千人の兵隊を無事に辿りつかせるだけでも容易でないのに、侵略などということを当時としては当面の大事として考える必要はなかったろうね。鎖国にしたって外国の兵隊の侵略がありうることに変りはなかろう。むしろ当面の大事は諸侯の自由貿易で、強力な海外文明が諸侯に利用される方が保守家たる家康には頭痛のタネであったにきまっている。政宗は家康が内々何より頭痛のタネになやんでることを怖れげもなく大大的にやろうというのだから、この田舎豪傑の眼力のとどかぬことは論外なのである。いつもながら後で気がついて大狼狽、大冷汗をながすのである。
政宗の計略は日本在住のバテレンたちに早くも見破られていた上に、支倉一行が向うへ到着してのちに、家康の宣教師追放、ヤソ教迫害がはじめられた。一行が政宗のいい加減な信書を国王や教皇に奉呈しても相手にされなくなったのは仕方がなかったのだ。
ソテロと支倉はエスパニア国王に歎願書を出して「家康が迫害したって、政宗は保護する。家康に対立して、こういうことができるのは、政宗と秀頼がいるだけだ」大きなことを云ってごまかそうと大汗たらしたが、全然ダメだ。当時(一六一六年)はすでに大阪城落城、とっくに秀頼は死んでましたよ。それも支倉は知らなかったかも知れない。日本の事情はバテレンからの報告で、かえって外国側にはよく知れているのに、支倉には日本のことがてんで分からないのだから外国側をだませる筈はなかったのである。
政宗は外国の力をかりて日本征服の野心があったというような話は根のないことで、噂はこのへんから出ているのであろう。支倉もソテロも政宗が家康に対立し
独自の政策を断行しうる唯一の人物だなどと毛頭考えていなかったであろうが、こう云わなければほかに相手を説明できそうな口実がないから仕方がない。彼に日本征服の野心などとはとんでもないことで、政宗は不意の禁教令に面食ったの面食わないの。支倉が日本に帰りついたのは分っているが、彼のその後のことがてんで分らない事からも、田舎豪傑の狼狽ぶりが分るではありませんか。政宗ディオゴ・デ・ガルバリオというバテレンはじめ九名の信徒を氷のはった広瀬川へ水漬けにして処刑したのは一風変った処刑として名高い話。政宗だけがそうではないのだ。もっと歴とした本物の切支丹大名が家康の禁教令の断乎たるのに慌てふためき、にわかにそれぞれ迫害者になったのだから、田舎策師の政宗などは無邪気な方であった。
せっかく青葉山の天嶮に城下を定めても、とたんに天下の形勢が変って、もはや天下に戦争なしという時世の到来である。青葉山のテッペンに天守閣を築かず、スキヤ造りの家を造って本丸にかえたり、石垣をきずかず自然にまかせて本格的な築城をしなかったのを、彼の本性豪放の性の然らしむるところであり、しかも彼の風流心の致すところであるとでも考えたら大マチガイであろう。要するに、みんな見透しが狂ったのだ。その滑稽きわまる産物である。
考えてもごらんなさい。汗ッかきの拙者だけが音をあげたわけじゃアありませんや。築城した当の政宗先生が音をあげて、オレの次の代からは本丸をフモトへうつせよ、と遺言するような途方もない天嶮を選んだ以上は、大天守閣を造るのが当り前さ。そういう万全の戦備なければ選ぶべからざる天嶮じゃないか。スキヤ造りというものは、小イキな築山かなんかと相対してはいるにしても、まア平地的なところに在るべきもんだね。こんな断崖絶壁のテッペンへ造るべきものじゃアないね。
政宗にしてみれば仕方がなかったのだ。彼は田舎策師だから、人の策謀を邪推する。平和な時代に築城して、それにインネンつけられて亡されては大変だと思うから、石垣もつくらず、天守閣もつくらず、天嶮のテッペンへスキヤ造りをチョコンとのっけた。時世が変ってみれば、城山のテッペンがバカ高いので迷惑したのは政宗当人さ。後手後手と、やること為すこと、まったく御苦労千万な豪傑なんだね。
今でいうと何の病気だか知らないが「御腹ノ脹満囲三三尺八寸五分ナリ。御胸ヨリ上、御股ヨリ下八御?疲甚シ」という容態で、それを我慢して将軍へ今生のイトマ乞いに上京した。将軍の使者が見舞いにくると衣服を正して出迎えてアリガタイ、アリガタイと感動するから容態がそのために悪化したという。そして江戸で死んだのである。日本征服どころの話ではないのだ。青葉山築城以来その死に至るまで、一貫して必死に計っているのは伊達家のささやかな安泰ということだ。彼が必死の全力をこめて舟を造り海外貿易を志したと見たら大マチガイ。彼が必死に全力をつくしたのは支倉渡航の方ではなくて、そのモミケシ、後始末の方なのさ。彼の生涯はいつも後の始末に必死なのだ。いつも気のつくのが手おくれだから、仕方がなかったという彼の悲しい運命なのである。
支倉一行が舟出したという月の浦は牡鹿半島の西海岸にあるね。ちょうど自動車がその上の山道を走っているとき故障を起して四十分も動かなくなったので、自然に舟出の跡を見物しましたよ。ひどくヘンピなところだが、ここから舟出したということは、要するに、貿易をはじめたらここを長崎式の指定港にするツモリだったのだろうね。ヘンピな半島を選んだのは、やっぱり彼の本心が切支丹を好んでおらず、それが都に近づくことを敬遠したせいではないかね。