(巻三十四) 両国といふ駅さびし白魚鍋(大牧広)

(巻三十四) 両国といふ駅さびし白魚鍋(大牧広)

9月23日金曜日

降るでもなく晴れるでもなく。エキサイト・ブログの方に随筆筆写を400余本を載せた。半分までもう少し。

昼寝して、本を捲っていて寝そびれて、散歩がてら図書館へ行く。返して借りてきたが、読みたい本が分からなくなってきた。笑える本が読んでみたい。

図書館前に鼻黒がいたので近寄ると逃げない。一袋あげた。おっとりとしているいい個性だが、リスクもあるのだろう。

帰宅してシャツにアイロン掛け。

腹がもたれているので間食はせず。

願い事-涅槃寂滅。

諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静

「英語脳によって日本語も豊かになる - 茂木健一郎」最強英語脳を作るから

 

「英語脳によって日本語も豊かになる - 茂木健一郎」最強英語脳を作るから

現在、親御さんの間で子供の英語習得に対する関心がものすごく高まっているのは、社会的なパスポートだと思っているからだと思います。英語を話せるか話せないかで、これから先の子供たちの人生の幅が違ってきてしまうと思っている。
英語脳というのはいろいろな要素がありますが、言語としての英語が話せるということでもあるし、マインド・セット、英語的な発想ができるということでもあります。それから、見落とされがちなのが、英語を話せる人はべつに英語ネイティブだけではないので、英語で話すといろいろな多様性を経験することになる。多様性というのが一つの鍵になると思います。
僕がここ1か月で英語を話した相手も、イタリアでイタリア人と、フランスでフランス人と、アメリカのタクシー運転手がケニア出身の人であったり、あと、韓国の人や中国の人もいてほんとに多彩です。英語ネイティブでない人との会話のほうがむしろ多いのです。それは、多くの人がする体験です。日本にも外国人がたくさんいらしていますが、英語ネイティブはむしろ少数派ですよね。
英語脳は結局、多様性に触れる脳と言うこともできる。バイリンガルの脳は認知症になりにくいというデータがあって、日本人にとっての英語脳というのはバイリンガルで、認知症になりにくい脳ということにもなるでしょう。
それから、英語脳になるというのは、それなりにその人が過去にチャレンジを積み重ねてきて、それだけのことを達成したという証でもあるわけで、この人は自分で課題を決めて、練習したり努力をしたりして目標を達成することができる人だと、一つの証明にもなることだと思います。
特に帰国子女でもない人が英語を話せると聞くとき、我々が受け止めるメッセージはそこだと思うのです。帰国子女でもないのに英語ができるようになっているということは、それなりに努力する能力があるのだなということを示している。ということは、英語だけではなくて、他のことでも、努力して課題をクリアする力があるのかもしれないと相手に認めさせることになる。その意味でも、パスポートとしての役割があるような気がしますね。
それから、ある小説家が誰かに「どうしたら小説を書けますか」と聞かれて、何と答えたかというと、「どれか一つ、何でもいいから外国語をやりなさい」とアドバイスをしたという話があります。日本語で小説を書く場合でも、外国語を何か一つやると豊かになるということを、その小説家は実践から知っているわけですね。
そういう意味では、実は英語脳というのは、日本語自体も豊かになる脳だということだと思います。夏目漱石も英語を徹底的に、発狂するぐらいやって、日本語の表現であれだけのことを成し遂げたわけですよ。だから、英語脳というのは日本語の充実にもつながるということではないでしょうか。
内田樹[たつる]さんが面白いことを言っていて、僕もそういうところがありますけど、科学者ということもあるから英語の文献が基本なので、僕はある時期から、日本語で何か書くときは、英語で表現できないことは基本的に書かないようにしました。
例えば、「人生は揺らぎゆとりが大切です」みたいな、「揺らぎ」と「ゆとり」を掛けたような、ユラユラな人生が大事だということをおっしゃる方がいますが、僕はそういう表現をしないし、できない。なぜかというと、「揺らぎ」と「ゆとり」で音が似ているのは日本語だけの話だから、英語にはその概念がないわけです。この話をしたら、内田さんが「僕もそうなんだよ」とおっしゃっていました。あの方は、フランス語で書けないことは日本語でも書かないとおっしゃっていました。
そういうふうに、日本語表現自体が変わるという効果もあるようですね。
ゲーテは、「外国語を知らない者は、自国の言語についても何一つ知らない」と言ったそうですが、そうなのかもしれないですよね。英語ができるようになると、日本語の大事さもわかるようになってくる気がします。
もともと、会話文をカギカッコでくくる、「すぐお宅へお帰りですか」「ええ別に寄る所もありませんから」のような表記法は、明治以前の日本語にはないので、樋口一葉の『たけくらべ』とかは、地の文と会話文の区別がありません。しかし、漱石は完全にカギカッコで括っているのは、ヨーロッパの言語の影響ですよね。句読点なんかもそうですね。
だから、日本語は外国語に触れることで随分豊かになってきた。僕はドイツ語をある程度やったことで、日本語の感覚が少し変わってきたところがある。まあ、英語ほどではないけれども、そういうところを実感するので、やはり有意義なことだと思いますね。
漱石は非常に英文を読めたわりには、書く日本語は英語的な文章ではないですね。そこが漱石のすごいところです。漢文の素養が多かったということもあると思います。
ですから、英語脳は、日本語脳の充実にも通じるというのは、多くの人が安心することではないでしょうか。日本人として日本語を大事にしたいのに、英語を勉強すると日本語がめちゃくちゃになってしまうと言う人がいるけれども、そんなこともないという気がします。むしろ、最近は日本の流行歌の歌詞から、以前より奇妙な英語が駆逐されたような気がします。
でも、いまの世の中、やはり流行るものは国境や文化を越えたものだということになると、ビジネスをやるうえでも、特に英語の文脈は空気を吸っているように吸っていないとダメですね。小説で言うと、もう世界文学というのが当たり前の時代だと思います。べつに何語で書いてもあまり変わらないという時代なのではないか、と感じます。
川端康成の『雪国』を、ノーベル賞委員会が恐らく英訳を読んで、日本の情緒ということを評価したというあたりも、言語の不思議な力でしょう。英語でも『雪国』の情緒が伝わったということでしょう。つまり、日本的なものの意味も、英語で伝わるということです。

 

(巻三十四) 去年今年井筒春日野二子山(芥川比呂志)

(巻三十四) 去年今年井筒春日野二子山(芥川比呂志)

9月22日木曜日

週末に台風が来るとのことで、それ備えての買い物となった。例えば鳥ももは最低でも25日まで賞味期限とかパンは26日とかの注文である。

で、生協に参る。鳥ももは23日までで見送り。パンは26日までのものがあった。買い物爺さんが多い。婆さんより爺さんの方が多いように見受けられる。

帰宅して洗濯。やや風が強いが外干しといたした。

昼飯喰って、洗濯物を取り込んで、昼寝して、散歩。傘を持って農産高校の周りを歩き、都住3でサンちゃんにスナックをあげて帰宅。40分ほど歩いた。歩けるうちか華だ。あの婆さんなんかも急に歩けなくなってしまったものなあ。

https://nprtheeconomistworld.hatenablog.com/entry/2019/10/12/081800

新藤兼人監督も散歩の効用を説いていらっしゃる。殿山泰司は73歳で亡くなられたと書いてあって、ちょうど逝きごろとも書いている。苦しまずに逝けたらしい。

願い事-涅槃寂滅

秋茄子やあとは上手に果つるのみ(阿知波裕子)

諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静

(巻三十四) 除夜の鐘おれのことなら放つといて(中村伸郎)

(巻三十四) 除夜の鐘おれのことなら放つといて(中村伸郎)

 

9月21日水曜日

長袖、長ズボンに衣更え。細君は朝から結露、結露と騒いでいる。

生協から戻った細君が云うに台風明けの今朝はいつもより混んでいたいたとか。行ってみたら混んでいた。買い物リストの品以外に駄菓子とアンパンを買う。割れ煎餅は迷ったがやめておいた。甘いものは尾を引かないが、塩煎餅の醤油味は噛り始めると止まらない。昨晩もボリボリバリバリと袋半分食べてしまった。

昼飯喰って、昼寝して、散歩。

明日から天気は崩れるとのことなので、曳舟川を上った。水戸・佐倉街道を渡りさと村のところで品書きをにらみ、百円の席料は消費税に充当との気に食わない一文を承知の上で入ってみた。

店はコの字形のカウンターでどうしても差し向かいで呑みたいという野暮な奴等のために一席だけ二人用のテーブル席があった。コの字の真ん中の右端に座る。コの字の上にはネクタイをしたご同輩が二人、コの字の下には三十代後半の女性三人組。3時から開店たがら開店早々に暖簾をくぐった客のようだ。

品書きには載せていないが黒ホッピーがあったのでそれにした。つまみは牛煮込み(500円)。この店にはテレビがない。大変よろしい。それだけでまた来てみようかという気持ちになった。煮込みはご覧通りだが、豆腐で上げ底になっている。

ネクタイ老人たちの会話は洩れてこないが、カシマシ三人組の話はよく聞こえる。水商売ではないようだが、客商売であることは間違いない。どうもマッサージ系らしいがイカガワシイ系ではないようだ。所帯持ちのようで家事を手伝わない旦那への怒りがツマミになっていた。

煮込みの薬味はニンニクかショウガかと訊かれてニンニクにしたが、結構効いているのでバレたらと心配になる。

中を1回足して出来上がり。勘定は1400円。串焼き本舗の煮込みよりボリュームが多いから由しといたそう。

兎に角、ちょい飲み千円は昔の話となった。

願い事-涅槃寂滅。

After your death, you will be what you were before your birth. - Author Schopenhauer

(巻三十四) 葛飾の大堤防を焼く日かな(高野素十)

(巻三十四) 葛飾の大堤防を焼く日かな(高野素十)

9月20日火曜日

6時に起きる。雨音は聞こえるが強雨ではないようだ。新聞が配達されていたが防水カバーはしてなかったから、明け方の雨も大したことはなかったのだろう。

10時ころから雨瀟瀟となる。家事は拭き掃除だけ。

昼飯喰って、昼寝して、散歩には出かけず。

ネットで書評など見て過ごす。赤瀬川氏編の「全日本貧乏物語」というアンソロジーが出ていたので、図書館ネットで検索したが、所蔵されていないようだ。顔本の「読書感想文倶楽部」というのを覗いてみたが、どうも趣味がちがう。

雨で3日間籠った。明日は4日分の小遣いを使って飲むか‼でも最近は一合(相当)以上は呑めなくなった(呑みたくなくなった)。

The SCIENCE of COOKING - Dr.Stuart Farrimond

KITCHEN ESSENTIALS

An essential guide to UTENSILS

を読み始めたところ、

HONING STEEL

という用具が出てきた。知らなかったがSteelには鋼砥石といった意味があったのか。知らないことばかり。

計量カップのところでは、

MEASURING JUG

A clear tempered glass jug accurately judges liquid volumes. Because of water's surface tension, it is tricky to judge its natural downward bulge in a cup.

とコメントが出ている。表面張力まで気にせねばならぬのか‼

夕飯に南瓜の煮物が出た。旨し、年だ。

寝床を敷く。20度を切ると云うので毛布と足元に薄掛布団を置いた。

願い事-涅槃寂滅。

台風を無事通したる夕日かな(根岸義行)

ということでありがたや、ありがたや。

(巻三十四) 検見衆の若きを混じえ五、六人(木原房子)

(巻三十四) 検見衆の若きを混じえ五、六人(木原房子)

 

9月19日月曜日

エキサイト・ブログの「随筆筆写」には昨日5人が訪れ、183-viewしてくれたらしい。今朝もお一人お見えになったようだ。いつ頃から筆写を始めたか見てみたら初掲載の漱石の『入社の辞』が2016年の10月になっていた。

台風が来るらしいが、穏やかな朝である。洗濯を致す。洗濯物の量は3日分だと思ったが普段の24literではなく31literと出た。洗い上がった洗濯物をハンガーに掛けたら4日分あった。やや風は強いが雨は落ちてこないのでベランダに干し、風が強まったお昼ころ取り込む。少なくとも水気は取れた。

昼寝して、散歩はせず。

筆写した作品を読み返しながら割れ煎餅と駄和菓子を楽しむ。面白い文章に巡り会いたい。

御助言大歓迎です。

 

願い事-涅槃寂滅。

死の欲動 - 春日武彦」私家版精神医学事典 から

を読んだ。

《ドイツ語でTodestrieb、死の本能と訳されることもある。フロイト1920年の論文「快楽原則の彼岸」ではじめて用いた言葉で、人を自己破壊や自己処罰、その究極としての死へ突進させてしまう悪魔的な力を指す。この概念はフロイトにおいて画期的なもので、生きることは快楽を目指すことであるといった単純な発想から「生きることは死の欲動との闘いである」といった苦く屈折した発想への転換を示すからである。

このような陰鬱な発想をフロイトにもたらしたのは、第一次世界大戦による(人類史上初の)悲惨な大量死と彼が向き合ったことに加え、彼が咽頭癌を宣告され闘病生活に入ったことが契機となっているようである。死の欲動はきわめて強大でそれに抗うことが難しく、しかも自我はその存在になかなか気づきにくい。それゆえ危険なしろものであるとフロイトは考えた。

戦争や自殺、自傷行為といった現象を説明するために死の欲動を措定したくなるのは良く分かる。切実になればなるほど死の欲動といったアイディアは妖しく輝きを帯びてくる。また、生は不安定きわまりないが死という状態は(いささかシニカルな言い方をするならば)安定の極致である。生命が安心と安定を目指すならば、それはすなわち死を目指すのと同じであるといった詭弁めいた論も成立するだろう。と、そんな調子で、死の欲動という概念にはなずかヒトを饒舌にさせるところがある。

しかし、この概念にはどこかご都合主義的な匂いもするのである。これと「生の欲動」とを上手く使い分ければ、いかなる心的現象もニュースのコメンテーターのレベルで説明が可能になってしまうのではないか。あまりにも便利過ぎるのではないだろうか。

個人的な見解を述べておくなら、死の欲動という部分のみを抽出するのはいかにも理念的であり、フェアでない。現実には、死の欲動は「生への未練」と密に混ざり合っていて、切り分けることなど不可能ではないだろうか。戦争や自殺、自傷行為さらには反復強迫といったものは純粋な破滅指向に駆動されているのではなく、どこか「拗ねる」「甘える」「自暴自棄」「居直り」「(神への)当てつけ」といったニュアンスが伴っているのが通常ではないだろうか。つまり死なずに気持の整理がつけられればそれが何よりであるといった類の心情が、胸の奥に横たわっているものではないだろうか。

そうなると、実は現状を一掃してもういちどやり直したい-いわばリセット願望とでも称すべきものこそを、心的現象を説明するための最小単位のひとつとして措定したほうが実際的ではないかと思いたくなる。リセット願望は、死の欲動と生への未練とを同時に含んだ概念という次第である。

死の欲動について興味がある読者には、まさにそのままのタイトル『死の欲動 臨床人間学ノート』(熊倉伸宏新興医学出版、2000)が示唆に富む。》

リセットについてそうなんですかねえ?と思うところあり。

「死の比喩(抜書) - 細川亮一」現代哲学の冒険①死 から

に、

《この「眠り」と「旅」という同じ表象に基づきながら、ハムレットソクラテスの古代の知恵(平静さ)とは異なる近代の不安を語る。「生きる、死ぬ、それが問題だ。どちらが貴いのだろう、残酷な運命の矢弾をじっと忍ぶか、あるいは寄せ来る苦難の海に敢然と立ち向かって、闘ってその根を断ち切るか。死ぬ-眠る、それだけのことだ、しかも眠ってしまえば、みなおしまいではないか、おれたちの心の悩みも、この肉体につきまとう数知れぬ苦しみも。だとすれば、それこそ願ってもない人生の終局ではないか、死ぬ-眠る-眠る!夢をみるかもしれない、そうか、ここでつかえるのだな。この世のありとあらゆる煩いから脱れて、眠って、さてその先どんな夢を見るか、それだ、それを思うと心が鈍らずにおれぬのだ-この躊躇がこの悲惨な人生をいつまでも永びかすのだ。……生活の苦しみに打ちひしがれ、汗にまみれ呻きながらも、ただ死後のある不安、いったんその境を越えて行った旅人がまだ誰一人戻って来たためしのない、あの未知の国への不安があればこそ、おれたちの決心もにぶるのだ。」》

と怯えについての話があるが、未練説よりはこちらの方に共感いたす。未練で死ねないのではなく、未知の死への怖れで死ねない訳さ。

(巻三十四) 検見衆のまとめて置きし鞄かな(中原道夫)

(巻三十四) 検見衆のまとめて置きし鞄かな(中原道夫)

 

9月18日日曜日

九州は大変らしいが、こちらは小雨。

掃き掃除だけで他に家事はなし。

午後になり、しっかりと降り始め雷鳴も聞こえる。香取神社の祭りも一日だけはできたが、今日は無理だろう。

昼寝せず、散歩も行かず。

エキサイト・ブログに『随筆筆写』というブログを開設した。今までに書き写した随筆評論などをこちらにまとめておくことにした。手間暇かけてやっているが暇はある、あるである。

午後7時に鹿児島市に上陸したそうだ。

台風の眼の中に居る海坊主(猿人)

願い事-瞑目。

諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静

涅槃寂滅とも云うらしい。涅槃寂滅を願うな。