「幸福の文学 吉田健一 『酒肴酒』 - 丸谷才一」集英社文庫 別れの挨拶 から

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「幸福の文学 吉田健一 『酒肴酒』 - 丸谷才一集英社文庫 別れの挨拶 から

吉田健一さんの『酒肴酒』といふ本は、どうのかうのと論ずるのに不向きな本である。かういふ本はただ読んでおもしろがればそれでいい。そしてじつにおもしろくて楽しい。それを分析したり解釈したり比較したり論評したり、つまりゴタクを並べるのは野暮な話である。しかしここでは、わたしはその野暮なことをしなければならない。損な役まはりだが仕方がないのです。
この本には、うまい料理を食べたりうまい酒をのんだりするのが幸福なことだといふことが書いてある。これは日本の文学史ではじめての事件だった。大げさなことを言ふなと怒られるかも知れませんが本当なので、紫式部だつて芭蕉だつて夏目漱石だつて、かういふ幸福のことは書いてゐないのである。そんなことは書くに価しないから彼らは書かなかつたのだ、と考へるのは間違つてゐる。彼らは口腹[こうふく]の喜びのもたらす幸福感に気がついてゐなかつたし、それを言ひ表はすだけの言葉を持つていなかつた。たとへ気がついてゐて、言葉の持合わせもあつたとしても、たかが知れたものだつた。ところが吉田健一さんははつきりと気がついてゐたし、表現するための言葉を充分持つてゐたからこんなに見事に書くことができたのである。
たとへば吉田さんはニュー・ヨークの朝飯屋について、「卵の匂ひがする卵や、バタの匂ひがするバタの朝の食事を出」す、と書く。われわれはもうそれだけでニュー・ヨークの朝飯屋にゐてその卵とバタを味はふやうな気になり、嬉しくなる。また、冬の新潟で食べた料理について、「それから、たらば蟹といふのか、割に大きな甲羅に美しい緑色の臓物が入つた蟹が出た。この臓物はうまい。蓴菜[じゆんさい]を動物質に変へたやうな味がする」と書く。この比喩は完璧で、恐ろしいくらゐ喚起力に富んでゐる。つまり早速この蟹を食べたくなる。さらに、「ボルドオの葡萄酒の上等なのはどこか、清水に日光が射してゐる感じがして、ブルゴオニユのを飲むと、同じ日光が山腹を這ふ葡萄の葉に当つてゐる所が眼の前に浮ぶ」と書く。これを読んで、たとへ酒が嫌ひなたちの人でも、ボルドーおよびブルゴーニュの葡萄酒をたちまち飲みたくなるのはごく自然なことである。
酒と食べものについての吉田さんの表現は、こんなふうにごく簡潔で、決してくどく書かないのに、われわれを強く刺戟する。それはもちろん文章の力のせいですが、しかしもう一つ大事なのは、たとへば葡萄酒、卵、バタ、たらば蟹によつて得られた幸福感を描くことに吉田さんの文章が成功してゐるといふ事情である。文章によつて一人の幸福な人間が出現するから、われわれはその人に会ふついでに、彼の口にしたものを信じてしまふのですね。どうもそんな気がします。
吉田さんがかういふ幸福な人間、あるいは人間の幸福感を書くことができたのは、近代日本の文学観との関係があるでせう。といふのは、明治末年以後の日本文学では、人生は無価値なもので生きているに価しないといふ考へ方が大はやりにはやつてゐたのだが、その考え方と最も威勢よく争つた文学者はほかならぬ吉田さんだつたから。彼は、人生は生きるに価するものであり、その人生には喜びや楽しみや幸福感があるといふことを主張した。さらに、人生はさういふものだからこそ文明が成立すると述べた。それはむづかしく言へば、文学風土の歪みや貧しさに反抗して人間的現実の総体をとらへようとする、そしてぶんを擁護しようとする事業だつたわけですが、その場合、いはば最初の手がかりになつたのは酒と食べもののもたらす幸福感だつたにちがひない。
といふのは、吉田さんは子供のときから食べることが大好きで、大量の三度の食事と大量のおやつを平らげ、しかも自分が大食だとは決して思はない子供だつたらしい。そのへんのことは『胃の話』に詳しいが、つまりむずかしい言葉を使へば、食べる喜びが原体験だつたことになる。さういふ人が長じて大酒飲みになり、しかも人間についても考へるとき、その考へ方のなかで口腹の喜びが大事な位置を占めるのは当然だらう。飲み食ひが大好きなのにそのことをナイシヨにして人生を論ずるなんて、そんな妙な細工ができる人ではなかつたのです。
その、子供のときの喜びに由来するせいなのか、吉田さんのこの種の随筆には童話のやうな趣がいつもありますね。それはたとへば、汽車に乗つて酒を飲みながら、これで雪が降れば文句がないなと話をするとすぐに雪が降るとか、ニュー・ヨークへ行つた話を書いて、それともあれはニュー・ヨークではなかつたのか、「ニュウ・ヨオクでなくてもいいから、もう一度あの町に行つて見たい」と結ぶやうなところによく示されてゐる。それは人間の願望がやすやすと成就される奇蹟的な世界であり、いぢめられてゐる継子[ままこ]が王子様に見染められるやうな調子ですね。そしてさういう感じが最もよく出てゐるのは、「酒宴」や「饗宴」などの短篇小説なのですが、しかしそんなふうに考へると、むしろ、大人のための童話と呼ぶほうがもつといいかもしれません。短篇小説といふ近代の形式は現世の約束事にあれこれと縛られてゐるけれど、吉田さんの作品はその種の制約からあつさりと脱して天空を翔けることができる。その点ではシュルレアリスムの短篇小説に近いやうな気がします。うん、これでわかりましたが、だからあんなに詩的なのですね。 
しかし、こんなふうにいろいろ言ふのは、最初に断つたやうにゴタクにすぎない。本当は、ただ読めばいい。「そのブルゴオニユの白葡萄酒にシャブリといふのがあつて、これは大体その壜の格好で解り、これに貼つてある紙で確かにシャブリであるとなれば、後はただもうゆっくり、大事に飲めばいい」といふのと同じことで、表紙で確かに『酒肴酒』とわかれば、あとはただもうゆつくり、大事に読めばいい。あまりおもしろいので、大笑ひしながら一気に読んでしまふかもしれませんが、それはまあやむを得ないでせう。