「〈美容整形〉この神を怖れぬもの - 三島由紀夫」日本の名随筆40顔から

 

「〈美容整形〉この神を怖れぬもの - 三島由紀夫」日本の名随筆40顔から

怪奇映画の一系列に、「マッド・サイエンティスト(きちがひ科学者)もの」といふのがあるのを、ご存じの方は多からう。
これのはじまりはおそらくあの有名な「ガリガリ博士」で、その後、フランケンシュタイン博士は、ガラス罎のなかに小型のバレリーナを製造して飼育したり、怪物を作つたりし、つひにこの系列は、水爆で世界を亡ぼす最近の「博士の異常な愛情」の、ストレンヂラヴ博士にまで及んでゐる。
この間[かん]、火傷でただれた美しい娘の顔を復元するために、ほかの美しい女の顔の皮を剥ぐ何とか博士やら、種々さまざまのきちがひ博士がスクリーンに登場したが、この系列が大衆に人気があるのは、次のやうな理由によるらしい。
つまり大衆は、超人的天才といふものには、興味はあるけれども、本質的には嫌ひである。さういふ人並みはづれた異常な知能は、もちろん尊敬するけれども、あまりにも凡庸な自分とかけはなれてゐるから、なんかとそれを悪者にしてしまひたい。そこで、知能が進んだばかりに人間の枠をはみ出して、非人間的な「科学の鬼」になつたイメージをつくり出す。それがマッド・サイエンティストなのだ。だからこの種の大衆映画は、かならず、人間の枠を守つた「人間らしい人間」の勝利に終るやうにできてゐる(ただし、あの怪作「博士の異常な愛情」だけは例外だが・・・)。
私は何の話をはじめるつもりだつたのだ。
私は美容整形の話をはじめるつもりだつたのだ。
それといふのも、わが国は美容整形のメッカであり、世界各国から患者が押しよせる、まるで「美容整形」といふ言葉と同義語であるがごとき、かの有名な十仁病院の院長、梅沢文雄氏に会った印象は、あまりにもマッド・サイエンティストの印象とかけはなれてゐたからである。
「美」と何の関係もないやうな殺風景な応接間、白麻のカバーをかけた平凡な椅子、村役場みたいな机、野暮や壁時計、ガラスのケースに入つた博多人形の美人、それから水上スキーをしてゐる院長自身の写真、院長のおかげでみごと手術に成功してふくよかな胸もとでエン然と笑ふブルー・ボーイ(元男性、今は女性のフランス人)と肩を並べて笑ふ院長の写真、白衣白マスクの医者が二人、患者の顔を整形してゐるところを描いた写実的な陰気な油絵、・・・かういうものに囲まれて、梅沢院長は、黒い背広に白衣を引つかけ、実に明るく、のびのびと語り、親切な態度で質問に答へた。
氏の風貌は、親しみやすい中年の紳士で、すこしも冷たいところや人を拒むやうなところがない。知的で崇高なところもない。わかりににくい独善的なところも、哲学的なところもない。話はいかにも実際的で、なんだか、新しい都市で、新しい市長に、都市計画の話をきいてゐるやうな気がする。
すなわち氏が、いかにマッド・サイエンティストのタイプではないか、といふことであり、怪奇映画はウソをついてゐる、といふことがわかるのである。
「うちは私で八代目の医者ですが」と氏は語る。
「父の手つだひをしてゐるうちに、医学は病気を対象にして進歩したけれども、近ごろの新しい化学薬品の発明によって、単なる投薬で治せる病気が大部分になつたことを痛感しました。医学はもつと広いものであつてもよいのではないか。病気以前の問題としては環境衛生も医学の領域であり、病気よりもつと先の問題としては、人間の容貌を美化する仕事、ただ病気を治して元の状態に戻すだけでなく、進んで、人間の欠陥を補ひ、改良し、進歩させる仕事も医学の新しい分野ではないか、と考えました。
幸ひ、美容整形の分野でも、ペニシリンと麻酔剤の発達のおかげで細菌感染による失敗もなくなつたし、体に入れる材料も進歩してきたし、植毛植皮術も発達してきた。従来の整形外科は病気が根拠だが、私の美容整形はさうではない。機能に悪影響がないかぎり、あまり世間体がわるい肉体的欠点をなくすために、適当に善処してやるわけです」

この「善処」といふ言葉が、いかにも私は面白かつた。今では、この「事業」(あへて事業といふ)の成功のために、国境を問はず客が集まり、それも実績を見た上での評判であつて、朝七時にニューヨークから長距離電話がかかつてきて、叩き起こされるやうなこともめづらしくないさうだ。ことしの二月二十二日に、十仁病院に来た患者は、初診旧患もふくめて四百七十八人にのぼり、いまも一日、二、三百人は来てゐる。門前市をなすとはこのことだらう。そのためかどうか知らないが、古い複雑な十仁病院の建物には、おのおのの露地に、合計三つの入口があるのである。
院長「この仕事をやつてみてわかることですが、人間の肉体の欠陥は人間に大いに悪影響があります。たとえば鼻が低くて、年中、鼻が低いといふことを気にしてゐると、精神的にどれだけ悪影響があるかもしれません」
私「しかし、アドラーの劣価補償説を見ても、劣等感が成功の原因になることがありはしませんか?ナポレオンの大成功も、背の低いことと、性器短小が原因だといふ人もあるくらゐです」
院長「それは人の素質によりませう。ナポレオンの成功は、やはりナポレオンの意志の力が例外的だつたからでせう。十中八、九の人はナポレオンとちがひますから、劣等感がマイナスにしか働きません」
私「手術が成功して美しくなつて、人間がみんな幸福になるでせうか?」
院長「はつきりいふと、二種類ありますね。女の歌手でも、美しくなつたことによつて、歌もうまくなり、大成功を納める人と、美しくなつてかへつて堕落して、身をもち崩してしまつた人とありますから」
ここらに人間と顔との関係の複雑さがひそむのだらうが、美化による仕事の成功と、幸福感とは、また別の問題である。ダラクしても当人は、もともと「美女の堕落」といふドラマのヒロインになることを夢見てゐて、それを忠実に演じて満足したのかもしれないから、いづれも、以前より幸福になつたと考えてもまちがひはない。院長が、鷹揚に、「人間の幸福は金で買へる時代が来たのです」といふねは、全然ウソだとはいへない。たしかに、人間の幸福の相当部分は金で買へるのである。
しかし、どうも、われわれ精神的日本人は、かういふ思想を素直にみとめたがらない。やつぱり金で買へないものを残しておきたがる。一方、「顔より心だ」などといひたがるのに、きれいな女にはすぐフラフラとなる。恋愛が性的なものであるかぎり、美醜といふことは、決定的な要素である。このことも、人々はあまり素直にみとめたがらない。少なくともそれは民主的な平等な思想ではないからである。美容整形は、その本来民主的ならざる思想を、民主的なものにするための、革命的事業かもしれないのである。

それはさておき、私はさつきから、失礼な質問をしようとしながら手控へてゐた。
院長の風貌は、実につやつやしてゐて、風邪気味にもかかわらず、疲れたり崩れたりしたところがない。老いの深い兆しがない。さういつたら失礼かもしれないが、ひとたびこの病院に足を踏み入れたときから、人の心をおそふ疑問、すなはち、
「この顔は本物かしら?」「この顔は生まれつきの顔なのか、それとも?」
といふ疑問を、院長の顔ものがれることができないのだ。
事実、この病院ぐらゐ、美人の看護婦のそろつた病院もめずらしい。それがみな念入りに化粧をしてゐて、受付の女性も、案内の女性もみんな、極端にいへば「脂粉の香が漂ふ」やうな感じがする。
しかし、もう一歩つつこんで見ると、その色気と美しさに、妙にひんやりしたものがある。私はニューヨークのマディスン街の事務所に、看板娘のごとく坐つてゐる受付嬢がみんな美人なのに感心したことがあるが、その美しさになんともいへぬ無機的な感じの漂つてゐたのをよく覚えとゐる。それとよく似た感じがあつて、どこにも野の香りや土の匂ひがしない。そして、なんとなく、薄荷のやうな味はひがあり、こちらの頭の片隅に、
「本当かな?」
と白日夢を見るやうな、白けた思ひがのこる。狐の美女がいつぱい出てくる「平妖伝」といふ支那の小説を思い出す。自分のほっぺたを★つねつてみたくもなるのである。
さういふ疑問を、院長自身に向かつて放つのは、あまり失礼だから黙つてゐると、カンのいい院長は、自分からかういつた。
「私も直しましたよ。目の下のたるみから、皮下脂肪の固まりを抜き取りました」
院長のそばにゐて、実に気のきいた助手ぶりを発揮する中年の婦長も、中年のおちついたあでやかを見せてゐるが、失礼ながらこれもあやしい。
看護婦さんのことを率直にきくと、実に率直な答が返つてきた。
「ああ、みんなやつてゐます。ここへ来て、患者さんたちがみんな美しくなるのを見てゐると、うらやましくてたまらなくなるんですな。かならずやつてくれといつて来ます。はじめのうちは只でやつてやりましたが、あまり多くなつたので、半額ぐらゐでやつてやります。しかし、きれいになると、他の職業につきたくなつて、やめて行くのが多いのには困りますな」
これは道場の弟子が上達すると、武者修行に行きたくなつて、出奔するやうなものであらう。ちなみに、この病院には、常時、七、八十人の看護婦がゐるさうである。医者は一時は三十五人もゐたが、いまでは十一人に減り、大へんな過労で、すでに二人倒れたさうだ。

客の多いのは、季節的には、二月、三月、四月のころで、春の到来と時を同じくしてゐる。それは人々が自然に、愛について、性について、美について、肉体について、考へる季節である。目からは、やがて満目の春の眺めが入ってきて、木々の葉いろ、花々の色も、人間の肉体の春をそそり立てる。むかし美容整形は隆鼻術と同義語だったが、いまでは、目を美しくしてくれといふ要求が圧倒的に多く、四十パーセントを占めてゐる。
「たとへば上瞼がかうかぶつてゐて」
と、院長は、美しい中年の婦長のさし出す色鉛筆でノートブックにさらさらと図示しながら、説明する。
「その上マツ毛が下向きになつてゐる目を直して、上瞼にたまつてゐる脂肪をとり、マツ毛を上向きにして、二重瞼にしてやると、にはかに目が活気を帯び、緊張を示し、全身の活動が容易になり、メンスさへさかんになります。
春が来ると目から春が入り、大脳の刺激を受け、性中枢が興奮する。こちらが切れ長の美しい目になれば、その目に自然に情味が加はつて、相手に感応して、また、こちらが相手から感応をうけて、ホルモンの分泌もさかんになるのです。
目のみにくい人ほどお洒落をしたがらない。目がきれいになれば化粧もしやすくなり、ますますお洒落になり、ますます美しくなる。女性の体の微妙なことは、目の下にたるみができたのに気がつくと、それだけでもう自発的に更年期障害を起こして、老け込んでしまふくらゐですから」
目と鼻などを直して、美人に生まれ変はつた女性は、それが外国籍であると、パスポートで問題を起こすことがあるさうだ。パスポートにのつてゐる写真と別人だと思はれてしまうのである。
事実、ビフォア(術前)とアフター(術後)の二枚の横顔の写真を見ると、人間の顔はこんな些細な輪郭の修正で、かうも変はつてみえ、かくも美しくなるのかと、おどろかざるをえない。
実際、美容整形といふこの新しい分野には、妙に強靭な逆説がひそんでゐる。ひどく人間的な分野であるとともに、考へやうによつてはひどく非人間的。ひどく人工的であるとともに、考へやうによつてはひどく自然。
もちろん医学のヒューマニズムといふものも一筋縄で行かぬのであつて、安死術の問題などの深刻さに比べたら、生命にかかはらぬ美容整形は、そんなに小むずかしく考へなくていいのかもしれない。
しかしここには幾多の興味ある問題がひそんでをり、人類の未来社会にかかはりのある暗示さへうかがはれる。
一番素朴な疑問は、
「親からもらつた生まれながらの顔をそんなにいぢくり回して」
といふ、孔子の教へにそむくことから生まれる、古くさい疑問であらう。たしかに、自然から与へられたものを変改するといふことに、われわれはある否定しがたい恐怖と不安を抱いてゐる。
ひとたび、天与の人間の肉体が改造可能なものだといふことになると、モラルの体系も、深いところどガタガタと崩れゆくやうな気がする。美しくする変形も、醜くする変形も、変形であることに変はりがないなら、美容整形も、因果物師も、紙一重のやうな気もする。因果物師とは、むかし見世物に出す不具者ばかりを扱った卑賤な仕事で、それだけならいいが、むかしの支那では、子供のときから奇形をつくるために、人間を四角い箱に押しこめて、首と手足だけ出させて育てたなどという奇怪な話が伝はつてゐる。美と醜とは両極端だが、実はそれほど遠いものではない。

これに反する考へのもつとも極端なあらはれが、カソリックの思想である。カソリックの教義は、自然の生殖を目的とした自然な体位の夫婦間性交のみを(しかも必要悪として)、みとめてゐるにすぎない。その他のものは、ほんのちよつとの傾斜であつても、みんな悪魔と罪へつながつてゆく。美容整形のごときは、人体の器物化と、人工の地獄と、人間の自己冒涜との怖ろしい象徴になるであらう。
もちろんこんな思想にも一理はあるので、人間はひとたび枠を外すと、どこまで落ちてゆくかわからない。宿命的なものであつた筈の顔が、自由に変へられ美しくなれるとすれば、世界の秩序の根本にひびが入るかもしれないのである。
しかし、美容整形が、人工による自然の冒涜だといふ点で非難されるのなら、カソリックも完全に筋が通つてゐる、といふことはできない。人間の性欲は、生殖のみを目的とするものとは考へられず、正常位だけが自然な体位とも考へられず、カソリックの立てた掟は、そもそもが自然に反した掟であり、キリスト教は反自然の教義である。そこにまた宗教の意味があるのだが、一方、美容整形は一見自然に反してゐるやうでゐて、「美しくなりたい」といふ人間の一番素朴で自然な動物的欲望に応へてもゐるのである。何が自然なのか、一概にいへたものではない。
のみならず、私は「美容整形」の思想が、未来社会の一つの重要なモラルになりさうな予感さへしてゐる。精神のことなんか置きざりにして、外面だけ美しくしようといふ考へは、人類が抱く一等浅はかな考へのやうだが、この「浅さ」が曲者なのだ。あらゆる「深い」思想が死に絶えたあとに、もつとも「浅い」思想に、「深み」が宿るかもしれないのである。
事実、さういふ時代は、アメリカにはかなりの程度で来てゐる。
肉体主義と簡単に呼ばれてゐるのがそれだが、肉体主義といふ、清潔な白い皿みたいな浅い思想には案外深い思想がこつそりひそんでゐるかもしれない。何フィート以上の背丈でなければ社長になれないから、大男のフットボール選手になることが青年の第一の夢であるやうな社会。「スマイル!」といはれて、美しい白い歯列をあらはして、感じよく微笑することが、社会的成功の第一条件であるから、歯並びの悪い青年は二十歳で総入歯にしてしまふやうな社会。日本でも、総理大臣や大臣のテレビ・フェースのよしあしが、かなり大切な政治的要素になるやうな時代が来つつある。美しく感じがよいといふことが、深刻な思想的深みより重要な価値を与へられる社会。
私はさういふ社会をかなりの程度に歓迎する。二十世紀とは、もしかすると、さういふ時代なのかもしれないのである。あの、深刻な、思想的な、告白的な十九世紀といふ時代のアンチテーゼとして、かういふ時代が来てもふしぎはない。それはある意味では「美の時代」の到来である。とにかく、もつとも巧妙に自然に見せかけ、野性に見せかけることに、あらゆる人工的努力を競ふ時代。エデンの園を人工的に再来させようとする時代。人間の心のなかの悩みだの思想だのは一顧も与へられず、ザイン(在る)よりもシャイネン(見える)に重点が置かれる時代。健康であることよりも健康に見えることのほうが尊く、美しいことより美しく見えることのはうが重要な時代。・・・それはもしかすると、裏側から、あの「輝かしいギリシャ」へ復帰する方法かもしれない。

それかあらぬか、十仁病院の各診療室には、ミロのヴィーナスの写真がふんだんに飾つてある。乳房の整形の部屋には、垂れ乳が美しく整形された写真のかたはらにヴィーナスの冷たい美しい乳房の写真が浮かんでゐる。
女ばかりではない。男も来る。男は以前は全来診者の十分の一くらゐであつたのが、いまは五分の一までふえ、なほふえつつある。男の希望は鼻を高くしたいといふのが多いさうだが、この病院へ来る男が、みんな軟弱な男だとはかならずしも私は考へない。なかには、あの硬派の聖書「葉隠」が「武士が二日酔で青い顔でお城へ出るやうなときは、頬に紅粉を刷くがよい」と教えてゐる武士的モラルによつて、決然、十仁病院の門をくぐる青年もゐるかもしれない。事実、戦時中、南方派遣の司令官に任ぜられた某将軍が、原住民に対して威厳を増すために、鼻を高くしたいといつて、ここへ手術を受けに来た例があるさうだ。
ある東南アジアの国で、映画の撮影中に、主演女優が急死してしまつた。あとその女優の出番が何十カットが残ってゐるので、困ったプロデューサーが、その女優にいくらか似た新人女優をつれて、そつくりな顔にしてもらひたい、とたのみに来た。手術はみごとに成功し、画面で、まつたく見わけのつかないといふ成果が上がつた。これは一面ひどく非人間的な話だが、私は死んだ女優の顔を完全に相続してしまった女優の、その後のことを知りたいと思つた。
女性の来診者は、どんな動機で来たか、ときいてみると、たいてい、
「乳房が小さくて水着になつたとき恥かしい」とか、
「友だちに、あんたのお乳小さいわね、いはれた」とか、
「恋人にさういはれたから」とか、
「旦那にさういはれたから」とか、
要するに他人の意見で整形の決心をきめて来たのが、圧倒的に多いやうである。ただ一人で鏡を見てゐただけでは、なかなか欠点に気がつかないらしい。女性のもつとも苦手とするのは自己批評であるから、それも当然である。彼女たちはすぐに鏡を味方に引き入れてしまふのだ。
先日、学生がやつて来て、「十仁病院では五十万で買ってくれるといふ噂をきいたから」といつて、自分の睾丸の片方の提供を申し出たのがゐたそうどあるが、院長は「生きた玉は扱はない」といつて断わつた。プラスチックの玉を、欠損したはうに補填する手術はやるのである。
私は世間しらずで、このごろ有名な処女膜再生の手術とは、何か合成樹脂の人工膜をとりつけるものとばかり思つてゐたから、破瓜のときに立派に出血するときいてびつくりしたが、なんのことはない、ただ残部を縫ひつけるだけなのださうだ。
院長と廊下を歩いてゐると、一人の中国人女性が、
「サヨナラ、今退院シュル、アト、クシュリ(薬)ヤッテ」
などと不得要領なことを愛想よくいつて帰つて行つた。彼女は、中国人患者の付添ひであつて、香港から来た娘のために、同族たちがかはるがはる親切に付添ひに来てゐるのださうだ。病室もあけつぱなしで、院長の顔を見かけると、底抜けに明るく声をかけて挨拶するその娘の態度は、マスクをかけてこつそり廊下の端を歩く陰気な日本女性の患者と、おもしろい対照をなしてゐた。
隆鼻術でも、母子が相ついで手術をうけるといふのはザラで、娘の成功を見てうらやましくなつた母親がやり、その上父親まで引つぱり込んでやらせるといふのもあるさうだ。外国人では、隆鼻術の反対の「鼻切除」が多いことは周知のとほりで、その少し上向きかげんに整形された鼻の写真を見てゐると、鼻の美学も幾変転したものだ、と感ぜざるをえない。
-見学ををはつて屋上へ出る。
裏手に竣工した新館のビルが見え、あたりはいちめんにネオンや広告板に囲まれてゐて、空はスモッグにおほはれてゐる。
見おろす露地の夥しい中華料理、すし、喫茶店、人間の食欲。それから、疲労、神経痛の薬のネオン。十仁病院と大書した灰いろの煙突。菊正宗や、大関の大きなネオン、酔つて何もかも忘れたいといふ欲望。銀行、証券会社、金をまうけたいといふ欲望。高速道路の入口とそのむかうね高架線。旅へのあこがれと、商用旅行のちよつとした浮気の夢。・・・そして、すべての欲望の裏側のむなしさを、広告板の汚ない裏側が露呈してゐる。これだけ各種の欲望が密集してゐる地帯に、美しくなりたいといふ欲望にこたへる病院があつたとて、なんのふしぎはがあらう。
屋上に実験用の白うさぎが四匹飼はれてゐて、黙々と冬の青菜を食べてゐる。
これらの、うさぎの一匹の鼻を実験に使ひ、プラスチックを入れて隆鼻術を施したら、格子の間から鼻をつき出して、せつかくのその高い鼻を犬に食ひちぎられてしまつたさうだ。
私はふと、この病院全体の、どうしても拭へぬ、ある「いかがはしさ」の印象について考へる。
しかし、目くそ鼻くそを笑ふとはこのことだ。多分、それは、芸術といふもの、芸術といふ仕事に携はることのいかがはいさから、そんなに遠いものではなからう。