1/2「女癖 - 別役実」ちくま文庫 思いちがい辞典 から

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1/2「女癖 - 別役実ちくま文庫 思いちがい辞典 から

「あいつはいい奴なんだが、ただ女癖が悪くてね」というようなことを言う。当然ながらこの場合の「あいつ」は男であり、これが女だったら「男癖が悪い」となる。かつてこのような癖をもち、それをそれらしく発揮するのはたいてい男だったので、「女癖が悪い」ことの方が専ら問題であったが、ここへきてやや情勢が変わり、「男癖が悪い」ということも問題となってきたし、現にそうした女も見かけるようになったのだ。
ところで、「女癖が悪い」というのは、必ずしも「色情狂」のことではない。つまり、せいぜい「色好み」という程度のものであって、「色情狂」というような病気ではないし、それによる「強姦魔」のような犯罪者でもないということである。そしてまた、こうした癖というものは往々にして、嵩じると病気になり、ひいては法の枠をはみ出して犯罪者ともなりかねないものであるが、「女癖が悪い」奴というのは、そうした過程における前段階のものというわけでもない。勿論例外はあって、なかにはそうなってしまうものもいないではないが、大多数の「女癖の悪い」奴はそうではない。
「女癖が悪い」奴は、進化も退化もせず、いつまでも「女癖が悪い」ままあり続ける。私の知っている或る婦人は、その「女癖が悪い」亭主ついて、「いっそのこと犯罪者にでもなって、刑務所に放りこまれたらせいせいするのに」と述懐していた。そうなのだ。それが、「女癖が悪い」奴の困ったところである。そいつは、確かに「女癖が悪い」のであるから、「普通」ではないのだが、かといって「刑務所に放りこむ」ほど「ものすごく悪い」のでもなく、その中間あたりをいつまでもウロウロしているが故に、周囲を苛立たせるのである。そしてその苛立ちは、「いっそのこと刑務所に放りこんでやりたい」と思うほどのことなのであるから、「ものすごく悪い」より悪いのであろう。
しかしまた、それでは「女癖が悪い」奴というのが、どう悪いのかというと、これがまたよくわからない。明らかに「女癖が悪い」奴というのは存在していて、誰かに「あいつは女癖が悪くてね」と指摘されると、「そうだね」と納得するのであるから、そこにはそう納得するに足る何かがあるはずなのであるが、それが何かということを証明することが出来ないのである。
例えば、「女癖が悪い」奴というのは一般に、「男女関係のことでいつもゴタゴタを起こす奴」と理解されている。それはいいだろう。しかし、ここには二つの要素が絡みあっている。ひとつには、「色好み」であり、本来あってしかるべきでない女にチョッカイを出すという点であり、もうひとつは、その手続きにおいて極めて要領が悪く、すぐ人に知られてしまうという点である。つまり、「浮気もの」で、しかもすぐに「ばれる」のだ。
勿論世間一般では、前者の「色好み」であり、本来あってしかるべきでない女にチョッカイを出すという点を以ってのみ、「女癖が悪い」と見なしているが、実はそうではない。「ばれる」から、我々にそれがわかるのであり、「ばれる」ことがなければ、そいつが本質的には「女癖が悪い」奴でも、決して「女癖が悪い」とは言われないであろう。
この点が重要である。つまり「女癖が悪い」奴というのは、常にそのことが「ばれた」奴のことなのだ。その手続きにおいて極めて要領が悪く、すぐに人に知られてしまう奴のみが、そう言われているのであり、「ばれる」ことのない奴については、誰も何も言わない。そして実は、このことがあるからこそ、「女癖が悪い」という癖は、嵩じて病気になったり、ひいては犯罪者になったりしないのであろう。そこで「ばれて」、それ以上その性向が進行することを停止されるからである。
従って、本質的に「女癖が悪い」奴で、ただ「ばれる」ことがないから我々に「女癖が悪い」と思われていない奴の方が、嵩じて病気になり、ひいては犯罪者となり果てる場合が多い。勿論、犯罪者として公表されたとき、はじめて我々もそいつの「女癖が悪い」ことを知るわけであるが、この場合我々は「あいつも、女癖が悪くてね」と、声をひそめて言う。そしてこれは、我々の知っている一般の「女癖が悪い」奴とは、明らかに違う人種なのである。