1/2「退屈こそ人生最大の楽しみである - 池田清彦」新潮文庫 他人と深く関わらずに生きるには から

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1/2「退屈こそ人生最大の楽しみである - 池田清彦新潮文庫 他人と深く関わらずに生きるには から

ほとんどの動物は、食物を探して、セックスをして、子育てをしてやがて死ぬ。動物でも食うことやセックスをすることに快感を伴うことは予想できるが、それ以外に楽しいことがあるのかどうか私にはわからない。人間も動物の一種であるから、食うこととセックスをすることは基本的に快楽だが(様々な理由で楽しくない人も時々いるけれども)、それ以外にも楽しいことがいっぱいある。
人間は社会的な動物だから、他人とコミュニケーションせずには生きていけない。他人とコミュニケーションすることが楽しいが、余り苦にならない人は、人並みの社会生活をして、そこそこ楽しい人生を送ることができるに違いない。みんなで集まってパーティをするとか、知り合いとお喋りをするとか、気の合った友人たちと小旅行をするとか、そういうことが楽しい人は幸せである。あるいは、ディズニーランドで遊んだり、映画を見たり、音楽を聞いたりすることが楽しい人も幸せである。
なぜならば、これらは世間公認の楽しみだからである。別言すれば、これらは好コントロール装置(すなわち権力)によって誘導された楽しみだからである。お仕着せの、あてがいぶちの、マニュアル通りの楽しみで満足できる人はとてもラッキーであると私は思う。別に皮肉で言っているわけではない。こういった楽しみで満足できる人は、自分の楽しみを満たすために非常な苦労をしたり、犯罪者になったり、借金をかかえて破産したり、等々の恐れが少ないからである。
人殺しが楽しいとかレイプをするのが楽しいとかいう人は、自分の楽しみを素直に追求すると犯罪者になってしまう。犯罪者にならないためには、自分の欲望を行動に表さないで頭の中だけで処理する必要があるが、これができないとめんどうなことになる。どんな反社会的な考えでも、行動に表さなければ一向にかまわないと私は思う(そう思わないヘンな人も時にいる)。禁じられた欲望が頭の中にうずまくことによって、表現者(芸術家や作家)として成功することもあるだろう。しかし、一般的に言って、殺人とかレイプとかの欲望を抱いて生きるのは、結構しんどいと思う。こういう欲望を抱いている人は、できることならば努力をして、別の欲望を抱けるように、脳の回路を少々作り替えるべきだ。殺人やレイプがいけないのは赤信号を渡ってはいけないというのとはレベルの違う話なのだ。自由と平等を擁護する限り、前者の行為が合法になることはあり得ないのだから。いくら行動に表さなければ問題ないといっても、それで一生、生き続けるのはストレスがたまりそうだ。
過度にバクチが好きな人も、楽しく生きるのが大変な人である。パチンコに狂って毎日数万円ずつ使っているオバサンとか、万馬券の夢を追って定職にもつかずに競馬場に通うオジサンとかは、それに耐え得る程の資産家でない限り、人生余り楽しくなりそうもない。
こういう人たちに比べれば、誰にも迷惑をかけないマイナーな楽しみを見つけた人たちは、過度に金のかかる趣味でない限り、なかなか幸せであると思う。私事で恐縮だが、私はカミキリムシという昆虫の仲間を収集して研究している。時に新種のカミキリムシを発見して専門雑誌に記載することもある。私の場合は半分は仕事だと強弁することもできるが、純粋に趣味でやっている愛好家も沢山いる。中には、すべての余暇と可能な限りの金をカミキリムシの収集に注ぎ込んでいる人もいる。
カミキリムシ収集の妨げになるからといって結婚をしない人もいるし、子供を作らない人もいる。会社での出世を断わった人もいる。世間の人は何てつまらないことに血道を上げて、とあきれ返るかもしれないが、誰にも迷惑をかけていないのだから(奥さんにだけは迷惑をかけているかもしれないが)、本人が楽しければ、何の問題もないのである。一般にこういった趣味は、楽しみの基準が本人一人の嗜好によって決定されているため、他人とコミュニケーションしながら楽しみを見出す遊びと違い、余り他人とつき合いたくない人向けであろう。
世間一般の多くの楽しみ(と称するもの)は、他人とつき合うこと自体を楽しみのなかに繰り込んでいるため、他人とつき合うのがにが手な人には、実は余り楽しくないのかもしれない。しかし、学校や会社といった組織では、みんなで集まって何かをすることが楽しいはずだ、との世間の物語を前提としているので、忘年会や社員旅行を断ったりするのは案外勇気が要るものと思う。仕事でないのだから、しかし、楽しくないことはしなくてよいのである。
みんなが楽しいと心待ちにしている行事を断わったら悪いんじゃないだろうかとか、変わり者と思われるんじゃないだろうかとか、きっと余計なことを考えるんだろうと思う。それで悩んで行事に参加して、楽しいフリをしてみたもののやっぱり楽しくなくて、早くお家に帰りたい、と思っているなんて、時間の損失ではないか。
そういう時にははっきり断わっていいのである。変わり者なんだから、変わり者と思われていいのである。むしろ、みんなにあいつは変わり者だから、と早く思われた方がいいのである。給料分の仕事だけをちゃんとしていれば、しばらくすればそういうものだと思って、周囲の人は行事に出席しなくとも、誰も不思議に思わなくなる。むしろ、たまに出席すると珍しがられ
るようになるだろう。出世は難しいかもしれないが、出世が人生一番の楽しみの人は、人づき合いも人生二番の楽しみの人であろうから、まあ、よいではないか。