2/3「解禁する - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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2/3「解禁する - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

画、漫画、写真、映画、実演(各種)、テープ、小説....この鬱蒼としているはずの禁園を少年時代から私はずいぶんさまよい歩いて探求にいそしんできたのであるが、見る、聞く、読むの、どのジャンルでも、結局のところは、想像力に訴えてくるものだけが、飽きがこないとわかる。写真よりは画、実演よりはテープということになってくる。小説にしたっておなじことで、どんな形と質でもいい、想像力に訴えないものは、作者自身が失神したくなるくらいガンバッて書いたものでも、こちらはアホらしくなるばかりである。セックスに関する分野ではどうしても想像力が鍵になってくるので、《もし男に想像力というものがなかったら公爵夫人も町の娼婦もおなじだ》という意味の格言が昔から告げているとおりである。では、小説なら小説であらわに、むきだしに書かないで、比喩や暗示や象徴にたよればいいのかとなると、そうもいかない。作者が対象にどれだけ熱くなっているかという永遠の鉄則がここでもはたらくのだし、その燃焼をどれだけ、どうやって制禦するかを作者がわきまえているか、いないかということも問題なのだし、細部が生きているかいないかということもきびしく要請されてくる。ひとくちに想像力といってもそれが発現する様相は多頭の蛇のように多方向で、不屈であり、とらえにくいのである。性を扱わない作品を名作にするのとおなじ原理と生理がここでもはたらくのである。

今年の夏、私はお茶の水の旅館で暮していたが、廊下越しの向いの部屋に平野謙氏がいらっしゃって、遅筆に悩みつつ起居しておられたので、よくいったりきたりした。その頃氏は荷風作と伝えられる例の『四畳半襖の下張』に興味を抱かれ、『新潮』に『机上の空論』と題するエッセイをお書きになったところであった。はなはだ当世風ではなく謙虚な題のエッセイは例のポルノをきっかけにして男女の性の相違を説いたもので、男はあのときにフュール・ジッヒ(対自)存在になり、女はアン・ジッヒ(即自)存在になるという原則を指摘したものである。氏がしきりに感想を求められるので、私としては、その原則には原則的にまったく同感である、しかしこれは空気が酸素と窒素でできていると指摘するようなことで、ひとくちに空気といっても山のそれ、海のそれ、町のそれと千差万別なのだから、ひとつ今後はその研究を発表してくださいと申上げた。しかしおれは経験不足、実践皆無なのだと氏は尻ごみなさるので、御参考までにと、たまたま手もとにあったバタイユアポリネールや、その他モロモロを氏の部屋へはこんだ。そして精をつけるために中華料理を食べにいったり、バーへ飲みにいったりした。氏は異性とおなじ程度に酒精飲料にも手をおだしにならず、もっぱらジュースを摂取して自己強化を試みられた。
そのときいろいろとポルノが話題になったのだが、わが国の中間小説雑誌におびただしく掲載されているあれら一群のものはどう考えたらいいのだろうかという議論がでた。私はずいぶん久しくこの種の雑誌を読んだことがなく、ときたま手もとにころがっていたらパラパラと頁を繰るぐらいである。それでもこの一群の作品の紋切り型のひどさは目にあまるものがあり、ある作者の今月の作品と前月の作品がどうちがうか、今年の作品と去年の作品がどうちがうのか、まったく判別がつかない、という程度のことは知っている。登場人物たちの名前と職業が変るだけのことであって、それさえ入れかえたら前月のも今月のも、去年のも今年のも、まるでけじめのつけようがない。よくあれで銭がとれるものだ。読者が飽きないのが不思議だ。買うやつがいるからこそ書くやつがいるわけのものだけれど、サルでもピーナツばかりではしまいにはふり向かなくなるというのに....というようなことを私がいうと、しばらく考えるまでもなく、氏は一言で、つまり受験参考書のようなものサと、断定された。
「毎年毎年新しい人口が育つのでね。そのヤング連中は何も知らないのだから、紋切り型でいいんだよ。受験参考書に英文の構式がでているだろう。あれとおなじで、構式は変りようがないのさ。数学でもそうさ。変っちゃ困るのだよ。そういうものなんだ。不思議がることはないよ。受験参考書なんだ。マ、天下泰平ってことなのよ」
氏はそう断言したあと、ジュースを飲み、美しい白髪をふるわせて、笑声をたてられた。私としてはいろいろと考えないでもなかったけれど、“受験参考書”というような名句は思いついていなかったので、さすがと脱帽した。