「省略 - 筒井康隆」講談社文庫 創作の極意と掟 から

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「省略 - 筒井康隆講談社文庫 創作の極意と掟 から

小説は、詩歌などと同じく省略の文学形式である。時間の省略形式としては映画、漫画などと同じだろう。では、そこに約束事と技法が存在するかと言えば、そんなものは何もないのだ。しかしこの省略が単なる省略に終らず、ある感動を与えることが多い以上は、省略について考えるということがプロの作家にとっては欠かせない。とはいうものの従来の小説において如何に省略がなされているかについて考え、それに疑問を抱き、従来の省略のしかたを無視して、またはそれに反して書こうとまでするのは、今までの小説に飽き足らなくなった作家のやる冒険であり実験だから、これに関して書くのは少し先送りしなければなるまい。
映画における省略、という話から入った方がわかりやすいと思う。大江健三郎は映画が嫌いで滅多に見ないそうだ。対談で聞いたことだが、昔、彼は映画「若草物語」を見た。おそらくマーヴィン・ルロイ監督の一九四九年版であったろう。ご存知四人姉妹の話だ。末娘のベスが危篤に陥る。やや持ち直したかのような描写があり、ひと安心と思いきや、次のカットで次女ジョーが登場し、モノローグとなる。「ベスが死んで一年経ちました」大江氏はあっと驚いたらしい。映画とはなんと残酷なことをするのか。
しかしこういう衝撃的な効果を与える省略は、小説ではお馴染のものだ。大江氏の驚きはそれがなまなましい映像であったがゆえなのだろう。実際にもこれと同じ効果を狙った小説では、映画にも造詣が深い金井美恵子の「恋愛太平記」がある。ここでは父親の死が直接には描かれず、突然三回忌の場面となって表現されるのである。
それにしても小説における省略とはなんといい加減なものだろう。主語が省かれるのは常だし、場面が「学校」とか「帰り道」とかだけ書かれて背景も風景描写もすっとばされることがある。話している相手の年齢も風貌も服装も省略され、時には性別すらわからないことさえあるのだ。ところが小説というジャンルでは強ちこれらをいけないとは言えないのである。こうした省略の中には一定の効果を持つものもあるから、それらはそれぞれのジャンルにおけるそれぞれの作品全体に奉仕するものでなければならないだろう。そもそもが省略なくして小説は書けないわけなので、そう考えると省略のしかたに約束事があるのではなく、省略こそが小説の約束事なのだ。尚、外山滋比古に「省略の文学」という著書がありますが、これは俳句のことなのでなんの参考にもなりません。
小説において最も特徴的なのは、最初に述べたような時間の省略だ。この時間の省略は作品によっても、また作家によっても、まことに恣意的に行われる。確かに約束事めいたものは存在し、それは例えば大きく時間が経過した場合は章立てを替えるとか、短い時間経過は改行するなどのことだ。しかしこれだってどうでもいいことであり、章立てを替えていながら前章の続きを書いている長篇はいくらでもあるし、小生などはふざけて同じ段落の中で「五年が経過し」などとやったりもする。
作家によっては、自分の嫌う場面や書くのが面倒な出来事を省いたりもする。これは時には小説としての結構に害を及ぼすこともあるから気をつけるべきだろう。どうしても書かねばならぬことは書くべきだし、不得手なことを毎度省略してそのままにしておいてはいけない。工夫して一応はうまく書けるようにし、書けるんだけど書かないという姿勢で省略を行うべきだ。そうするうちには省略のコツがわかってきて、いい形容を思いついた部分はあえて省略せずに生かして、より文学的にし、それによって逆に美的な省略法を思いついたりすることもある。
文学者肌の作家には、斬り合う場面や乱闘シーンなどの修羅場を嫌う人が多い。チャンバラ物ではないのだから、活劇ではないのだから、何よりもそれは文学的でなければならないからという理由で、後述法を借りてきたりしてこういう場面を省略する。その省略がスマートで美的ならこれは勿論かまわない。映画で言うなら山中貞雄伊丹万作がチャンバラ・シーンを嫌ったようなもので、この監督たちは実にスマートに省略している。多勢を相手に「表へ出ろ」と侍が立ちあがると、わっと全員が表に走り出て、ワイプした次のシーンでは大勢が道路に転がっている。全部やっつけたわけだが、こんなユーモアのある省略は小説だとなかなか難しい。
(以下省略)