(巻三十一)悩みあり胃の腑騒がし夏蜜柑(丸丘遥)

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(巻三十一) 悩みあり胃の腑騒がし夏蜜柑(丸丘遥)

10月23日土曜日

朝晩、血圧測定をして管理手帳に記入している。新しい手帳になって、都度2回測定し、それぞれを記入した上で平均値を記入することになった。数字に滅茶苦茶弱いので、 平均値の計算が面倒だなあと思った。だが、実際には一桁の引算とその差を2で割り、それを引いた数に加えればよい。今朝の場合、110/79と115/80だったから5引く0割る2で2・5、それを110に足せばよい。2回の血圧の測定値の差が二桁になることはあまりない。これくらいの計算が暗算でできなくなれば、私の人生は薔薇色かもしれない。

血圧の上がる寒さとなりにけり(拙句)

BBC World Service - The Food Chain, The Art of Fermentation

の書き取りで聞き取れなかったところを顔本でも皆さんに訊いていたが、イギリスのドギーから“augment”との解答を頂いた。そう云われて聴いてみればはっきりそう聞こえる。

今、聴いている

BBC World Service - CrowdScience, Is Hypnosis a Real Thing?

は半分まで聴いたが相性がよくない。無理して聴いていてもよろしくないので、ここは一旦鉾を収めて出直すことにしよう。書き留めた言葉は1250operation performed、手術をするはperformなんだ。

午後、散歩に出かけた。昨日は籠っていたので風が強かったが三千歩を目指し、達成した。本日は三千四百歩で階段は2回でした。

願い事-ポックリで叶えてください。コワクナイ、コワクナイ。

色ボケも一段落した。行き着くとこまで行けば先はない。開高健氏の『解禁する』を思い出した。

> 1/3「解禁する - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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> ここ三年ほど外国へいかなかったので最新の実情を自分の眼で見ていないわけだが、欧米へでかけ、ことに北欧を見て帰ってきた知人たちの話を聞くと、どうやらポルノはすっかり下火になってしまったらしい。政府はいっさいの言論・表現の自由を認める立場から従来どおりにポルノ出版もセックス・ショップもおおらかに許可しているのだけれど、客が寄りつかなくなったために業者自身が方針を変えたというのである。いままでようにおおっぴらに店頭で売ることをやめて、妙に秘密めかした、解禁以前のような、こそこそした雰囲気に転換しはじめたというのである。論より証拠といってさしだされるポルノ・ブックを繰ってみると、明瞭に変化が読みとれる。いままでような、解剖学的リアリズムというか、医学的リアリズムというか、そういう全面開放をやめて、むしろわが国でいうチラリズムに変っているのである。肝腎のところをかくしたり、ボカしたり、映画になるとハイ・キー・トーンでトバしたり、というぐあいになってきた。政府が何もいっていないのにポルノ屋が自分で自粛をはじめ、“芸術”がかった方向へ転身をはじめたらしい気配である。

> かれこれ十年近くになるだろうか。フリーセックス運動の叫びといっしょに北欧ポルノがはじまったとき、私はヨーロッパへいくたびにきっとデンマークスウェーデンかに立寄って、ポルノ・ショップへいき、あれこれと買いあさったものだった。登場する男や女、ことに女たちが、どんなポーズをとってもいきいきと微笑し、溌剌とし、晴朗で、不幸、貧窮、抑圧の陰湿な匂いが一刷[ひとはき]もなく、眼も眉も - いうまでもなく♀も - ひらけるままにひらいている。その明澄さ、のびのびとした歓びの表情に私は私は眼を瞠[みは]ったものである。北欧ポルノも一挙に全面開放になったわけではなくて、一年一年と段階を追ってエスカレーション - 下部構造をめざしてのそれだからデスカレーションというべきか - たとえばある年はパンティまで、そのつぎの年はパンティをとって茂みまで、そのつぎの年は♂が♀の戸口をたたくところまで、そのつぎの年ははいよいよ全面解放、ズバリ陥没....といったぐあいで、毎年、どこまでいきましたかなと思って頁を繰るのが、じつに愉しみであった。全面開放になってからはポーズの開発と組みあわせの工夫に全力があげられ、男と女、男と男、女と女、男ひとり、女ひとり、白人と白人、白人と黒人、黒人と黒人、黄人と白人、何組も入りみだれての乱交、思いつくかぎりの光景を見ることができ、いくらか飽きがきかかってはいたものの、それなりに、おもしろかった。

> けれど、そのうちに人間だけではつまらなくなったらしくて、ワンワンちゃんやブウブウちゃんが登場するようになり、ハレンチということばが辞書から消えたのだが、こちらはすっかり鼻についとしまい、食傷気味もいいところで、むしろ何やら索漠とさえなるのをおぼえるにいたった。コペンハーゲンのポルノ・ショップへいくと、店内いっぱい、床から天井までギッシリ、何十種、何十冊と数知れないポルノ・ブックが壁を埋めている。たいてい表紙は女がグラン・テカール(大股開き)をやっている写真であるが、♀ばかりが何十も大口をあけているところを見ると、まことに陰惨、荒廖[こうりょう]としたものをおぼえさせられて、僻易した。血は昂揚しないで、むしろ凄[さび]しく沈降していった。熱くなるよりは、むしろ萎[しな]びてしまった。こんなことでへこたれてはいけないと思ったり、おれもそろそろ年だろうかと思ったり、日本人だからたろうかと思ったりもして、何とか自身をはげまそうとするのだが、見れば見るだけ減退をおぼえ、どうにもならなかった。

> 2/3「解禁する - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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> 画、漫画、写真、映画、実演(各種)、テープ、小説....この鬱蒼としているはずの禁園を少年時代から私はずいぶんさまよい歩いて探求にいそしんできたのであるが、見る、聞く、読むの、どのジャンルでも、結局のところは、想像力に訴えてくるものだけが、飽きがこないとわかる。写真よりは画、実演よりはテープということになってくる。小説にしたっておなじことで、どんな形と質でもいい、想像力に訴えないものは、作者自身が失神したくなるくらいガンバッて書いたものでも、こちらはアホらしくなるばかりである。セックスに関する分野ではどうしても想像力が鍵になってくるので、《もし男に想像力というものがなかったら公爵夫人も町の娼婦もおなじだ》という意味の格言が昔から告げているとおりである。では、小説なら小説であらわに、むきだしに書かないで、比喩や暗示や象徴にたよればいいのかとなると、そうもいかない。作者が対象にどれだけ熱くなっているかという永遠の鉄則がここでもはたらくのだし、その燃焼をどれだけ、どうやって制禦するかを作者がわきまえているか、いないかということも問題なのだし、細部が生きているかいないかということもきびしく要請されてくる。ひとくちに想像力といってもそれが発現する様相は多頭の蛇のように多方向で、不屈であり、とらえにくいのである。性を扱わない作品を名作にするのとおなじ原理と生理がここでもはたらくのである。

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> 今年の夏、私はお茶の水の旅館で暮していたが、廊下越しの向いの部屋に平野謙氏がいらっしゃって、遅筆に悩みつつ起居しておられたので、よくいったりきたりした。その頃氏は荷風作と伝えられる例の『四畳半襖の下張』に興味を抱かれ、『新潮』に『机上の空論』と題するエッセイをお書きになったところであった。はなはだ当世風ではなく謙虚な題のエッセイは例のポルノをきっかけにして男女の性の相違を説いたもので、男はあのときにフュール・ジッヒ(対自)存在になり、女はアン・ジッヒ(即自)存在になるという原則を指摘したものである。氏がしきりに感想を求められるので、私としては、その原則には原則的にまったく同感である、しかしこれは空気が酸素と窒素でできていると指摘するようなことで、ひとくちに空気といっても山のそれ、海のそれ、町のそれと千差万別なのだから、ひとつ今後はその研究を発表してくださいと申上げた。しかしおれは経験不足、実践皆無なのだと氏は尻ごみなさるので、御参考までにと、たまたま手もとにあったバタイユアポリネールや、その他モロモロを氏の部屋へはこんだ。そして精をつけるために中華料理を食べにいったり、バーへ飲みにいったりした。氏は異性とおなじ程度に酒精飲料にも手をおだしにならず、もっぱらジュースを摂取して自己強化を試みられた。

> そのときいろいろとポルノが話題になったのだが、わが国の中間小説雑誌におびただしく掲載されているあれら一群のものはどう考えたらいいのだろうかという議論がでた。私はずいぶん久しくこの種の雑誌を読んだことがなく、ときたま手もとにころがっていたらパラパラと頁を繰るぐらいである。それでもこの一群の作品の紋切り型のひどさは目にあまるものがあり、ある作者の今月の作品と前月の作品がどうちがうか、今年の作品と去年の作品がどうちがうのか、まったく判別がつかない、という程度のことは知っている。登場人物たちの名前と職業が変るだけのことであって、それさえ入れかえたら前月のも今月のも、去年のも今年のも、まるでけじめのつけようがない。よくあれで銭がとれるものだ。読者が飽きないのが不思議だ。買うやつがいるからこそ書くやつがいるわけのものだけれど、サルでもピーナツばかりではしまいにはふり向かなくなるというのに....というようなことを私がいうと、しばらく考えるまでもなく、氏は一言で、つまり受験参考書のようなものサと、断定された。

> 「毎年毎年新しい人口が育つのでね。そのヤング連中は何も知らないのだから、紋切り型でいいんだよ。受験参考書に英文の構式がでているだろう。あれとおなじで、構式は変りようがないのさ。数学でもそうさ。変っちゃ困るのだよ。そういうものなんだ。不思議がることはないよ。受験参考書なんだ。マ、天下泰平ってことなのよ」

> 氏はそう断言したあと、ジュースを飲み、美しい白髪をふるわせて、笑声をたてられた。私としてはいろいろと考えないでもなかったけれど、“受験参考書”というような名句は思いついていなかったので、さすがと脱帽した。

> 3/3「解禁する - 開高健」角川文庫 白いページ2 から

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> ヘンリー・ミラーはある文章で、禁圧時代の作家たちが、♀のことをもっぱら比喩で表現し、“薔薇の花の芯”だの“蜂蜜の壺”だのとまわりくどいことを書くのは“偽善”である。どうしてズバリ、OMANKOと書かないのかといって腹をたてている。彼はこの“偽善”に抵抗して自説のままを自作に展開してみせたわけだが、私にいわせるとこれは半ば正しく、半ば正しくない。私の知人に丸谷才一というたいそう博識、公平、かつ率直な鑑定家がいるが、彼にいわせると、チャタレイ裁判なるものは煮つめていくと、トドのつまり、OMANKOだのMARAだのという四ッ文字ことばを公認するか否かという一点に尽きるのだそうである。こうしい端的な議論と指摘は現実を直視しているので私は好きなのだが、さて、四ッ文字ことばがおおっぴらに手をふって印刷されるようになると、さきのコペンのポルノ・ショップとおなじことになりはしまいかとも思う。

> 社会習慣としてのこの禁忌が解禁されて、誰でも彼でもが平然としてOMANKOがどうの、MARAがどうのと口にするようになり、書かれるようになり、そして誰もモゾモゾしたり、コソコソしたりすることがなくなるようになると、かえって荒寥としてくるのではあるまいかと思うのである。あちらこちらにそれが氾濫してくると、かえって、昔、“薔薇の芯”だの“蜂蜜の壺”だのとまわりくどいそれゆえ熱さをこめてささやきあっていた偽善がなつかしく奥深いものに感知されるかもしれないのである。ことばを考える工夫にふけっていた熱さや思慮のこまかさが優雅な成熟としてふりかえりたくなるかもしれないのである。そういうことが偽善なのではなくて、じつは高い意味でのことばの遊びなのであったということに気がつくようになる。性は食とおなじほどに根源的なものなのだから、広大さと豊沃さを何とか工夫してあたえ、培養しておかなければならないものだが、そうなると誰も無影燈のしたで食事するよりは、ほの暗く、ほのあたたかいキャンドル・ライトで食事をしたがるというのと、おなじ原理が、こっそりと匿名のうちに作用してくる。OMANKOだの、MARAだのといくら口にしてもよい自由は確保しなければならないのだが、しかし、誰もそれを口にするものはないという状態が望ましいのである。ヘンリー・ミラーが“薔薇の芯”と書かないで、ズバリ、“カント”と書いたときは身辺に禁忌が窒息的なまでに充満していたからで、彼がそう書くときにこめた熱中は反逆のそれなのであり、習慣としてのそれではなかったことに留意しなければならない。習慣になれば、これはおぞましいかぎりのものとなる。ヘンリー・ミラーの“カント”を、それが書かれた時代に読んだ感動と、何もかもがオープンになりつつある現在の感触で読む感動とでは、まったく違ったものがあるはずである。すべての禁忌が後代になってはただ不可解としか感知されないのとおなじことである。

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> あらゆる指導者、あらゆる為政者は、古来、どれくらい性表現をタブーとしてきたことか。そのためどんなに美しく、また、清純、また、厳格と見えるスローガンを掲げてきたことか。しかし、こと表現の自由については、これまでのところ、史上もっとも革命的な政府はレーニンのそれでもなければ、毛沢東のそれでもなく、ホー・チ・ミンのそれでもない。デンマーク政府である。“革命なき革命を”という名句を編みだしたのは第二次大戦後のイギリスの労働党だが、デンマーク政府はおおげさなことは何も口にしないで、どんな革命の指導者も頭から禁止してしまうことしか考えなかったことを、平然として人民に許したのである。

> それでいて、その結果、デンマークにはべつに何事も発生しなかった。フリー・セックスを認め、ポルノを認め、いっさいがっさい人民に公然と大股開きをすることを認めたのだが、だからといってその社会に流血や叛乱や解体は何ひとつとして発生しなかったのである。むしろ、ポルノ屋は夢中になって工夫と開発に没頭した結果、誰も何もいわないのに自分から自粛するよりほかないということになったのである。幽霊の正体見たり枯尾花というところか。

> しかも、この史上もっても革命的であったデンマーク政府の首相や大臣の名前を誰に聞いても知らないというし、私自身も知ろうとしたことがない。かつてそうしようとしたことがなかったし、いまもそうしようと思っていない。これまでの永い永い禁忌の歳月のあいだにどれだけ多くの英才や奇才がこのために迫害されて散っていったかを考えあわせると、いったい歴史とは何なのだろうかと、数万回繰りかえした問いをあらためてもう一度繰りかえしたくなってくる。人間はざんねんなことに、また、奇妙なことに、根源的に相反併存の動物であって、何かを得れば何かを失うということを際限もなく繰りかえしてきたし、いまも繰りかえしつつあり、ときにはそのために屍山血河[しざんけつが]、眼も口もあけていられないような腐臭のなかでいったりきたりしている。そのあげく手に入れるものは、熱狂がおさまってしばらくたってからふりかえってみると、それが手に入れられなくて七転八倒していたときと本質においてさほど大差ないといいたくなるようなものばかりである。どうなるのだろうと問い、べつにどうッてことはないのだろうとつぶやき、けれどそれでも満足できるわけではなく、また問い、またつぶやき....

という開高健氏の評論である。

色ボケも一通り行き着いて、戻って見直すのはヘンリー塚本作品だ。イヤイヤからイクイクへのドラマだが、役者いい。演技がすばらしい。字幕にイタリア語らしいのが走るも、頷ける。

無料AVサイトは危険ということで躊躇していたが、

初心者でも安全にエロ動画を視聴する方法|無料サイトTOP10も紹介 (pan-pan.co)

を参考に、

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を閲覧している。比較的古いヘンリー塚本作品が20本くらい観られる。

見始めて1週間ほど経つが、今のところ詐欺・脅迫のお便りはない。