「ツービートの時代のお笑い 1980年代の漫才ブーム - 北野武」幻冬舎文庫 全思考 から

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「ツービートの時代のお笑い 1980年代の漫才ブーム - 北野武幻冬舎文庫 全思考 から

俺の時代までの漫才は、いうなれば、アメリカからの輸入物だった。
エンタツアチャコに始まって、渥美清さんから萩本欽一さんまで、日本の代表的なコメディアンのほとんどが、たとえばロック座にフランス座日劇ミュージックホールというストリップ劇場の出身だ。俺もストリップ劇場からスタートしたわけで、そういうスタイルは、日本独特のものだと思っていた。
けれども、元をたどれば、ブロードウェイの近所にあったバーレスクに行き着くのだ。
バーレスクというのは、女の子が裸になって踊って、その合間にコメディをやる一種のバーだ。かのローレル&バーディもアボット&コステロも、そういうバーレスクのコメディアンだった。そのアボット&コステロの有名な『メジャーリーグ』が、太平洋を渡ってエンタツアチャコの『早慶戦』というネタになったというわけだ。ナンセンストリオも、俺の師匠の深見さんも、アボット&コステロのネタをやっていた。日本独自のスタイルだなんていうのは、とんでもない勘違いだった。
ただし、そういう時代は、日本ではあまり長続きしなかった。たぶん文化の違いだろうけれど、アメリカではストリップとお笑いは同格の存在なんだと思う。アメリカには、ストリップもお笑いも、同じエンターテイメントとして楽しむ雰囲気があったのだ。
だけど、その発想はあまり日本的ではなかったみたいで、どうしてもストリップが主になってしまう。
まあ文化的に言えば、江戸や明治の昔の吉原には、幇間がいたわけだ。念のために説明すれば幇間というのは、酒席で客の機嫌を取り、芸を見せる人のこと。男芸者ってやつだ。つまり、バーレスクのスタイルは、幇間が酒の相手をして、そのあとを芸者が担当するっていうのと似ていなくもない。遊びが悠長というか、要するにいい時代だった。現代で言うなら、ソープランドにお笑い芸人がいるみたいな話なわけだ。
今じゃそんなところに芸人が「どうも~」なんて出ていこうもんなら、ふざけんなって殴られるのがオチだ。
俺の時代のストリップ劇場がまさにそうで、お笑いを見に来ている客なんてめったにいない。そういう舞台で鍛えられているから、浅草の芸人はすごいってよく言われる。俺自身もそう思っていたけれど、あれは間違いだった。
芸人の本能として、女の子の裸を見に来た客だろうがなんだろうが、とにかく笑わせようとするわけだ。けれど、その結果として、芸そのものが下品になる。昔はそれを“テキヤ芸”といった。テキヤが道を歩いている人を呼び止めて、モノを売りつけようとするのと同じことで、関心を惹くために、とにかく客を驚かせるような芸になってしまう。
基本的に、芸を磨くためにはやっぱり、お金を払ってお笑いを見に来てくれた人のために勝負した方がいい。いい芝のグラウンドでサッカーをした方が上達が早いのは当たり前だ。料理人にしたって、量が多けりゃそれでいいっていうような大衆食堂でどれだけ修業しても、いい料理を作れるようにはならない。いい料理の定義は別にして、だ。いい仕事を学ぶには、やっぱりいいお客を相手にしないといけない。
俺もストリップ劇場でずっとやっていたから、演芸場で漫才をやるようになって、こんな楽なお客はいないと思った。なにしろ、客は笑うことを目的に来ているのだ。
ところが、それで空振りしたときの悲惨さといったらない。
心の底から落ち込むし、とにかく焦りまくる。
ストリップ劇場でいくらスベっても、ちっとも気にならなかった。どうせ女の裸を見に来た客と、酔っぱらいしかいないわけだから、ウケなくても当たり前なのだ。
しかし、金を払って笑いに来ている客の前では、そういう言い訳はできない。ウケないのは、自分のせいでしかない。あれはかなり辛かった。
辛かったからこそ、努力もしたし、必死にもなったというわけだ。
俺たちの時代は、NHKだのなんだのと漫才コンクールがいくつかあって、そこで賞を獲らないことにはなかなか認めてもらえなかった。同期の芸人がどんどん賞を獲っているのに、ツービートは無冠の帝王、賞とは無縁の存在だった。自分じゃ、負けたなんて思ったことはない。演芸場では、俺たちの方がウケているのだ。
現場では俺の方がウケているのに、なぜ勝てないのかというと、そこには日本式のルールがあった。
賞を決めるのは、芸そのものよりもむしろ、芸人の協会やテレビ局と、そこにつながる師匠たちの思惑だった。
「この人は長いことやってるし、そろそろ賞を獲らせなきゃ」
「ツービートって新しいのが出てきたな。確かに面白いけど、アイツら今までコンクールに出てないじゃないか」
そういうことをさんざんやられて、まあずいぶん恨んだ。
芸事というのは、フリーなものだと思っていた。劇場でいちばんウケるヤツがいちばん偉いという、シンプルな実力社会だと信じていたのだ。それだけに一層、そうじゃないという現実に腹が立った。
組織や社会に束縛されるのが嫌で芸人をやっているはずなのに、なんのことはない、中に入ってみれば、むしろ世間よりきついしがらみの世界がそこにはあった。
それはまあ、芸事に限ったことではない。音楽の世界でも、同じようなものだったりする。若い優れた芸術家にチャンスを与えることを目的とする、なんて言っておきながら、実際には審査員や主催者の話し合いで最初から受賞者が決まってるなんて話はいくらでもある。
だからあの頃は、スポーツ選手が羨ましくてたまらなかった。
短距離でもマラソンでも、誰の目にもはっきりした勝敗がつく。ヨーイドンでスタートして、いちばん先にゴールに駆け込んだヤツが勝者なのだ。この人は長年努力しているからって、3位とか4位の選手が金メダルを獲ることはない。苦労しようがしまいが、速いというそのことだけで評価が下される。
それが演芸の世界では、なんで「この人は努力してる」なんて理由で、たいして面白くもない芸人が賞を獲ってしまうのか。それが、ショックだった。客をいちばん笑わせているはずの自分が賞を獲れないという現実に、来る日も来る日もイライラしていた。
漫才協会の幹部とかNHKに取り入って、賞をもらおうなんて考えはこれっぽっちも浮かばなかった。何年かかろうとも、俺はアイツらに関係なくのし上がってみせる。それだけを考えていた。

喧嘩もずいぶんした。
テレビ局やラジオ局に呼びつけられて、漫才させられて、プロデューサーに「つまんねえなあ。もっと他の
ネタはねえか?」って言われて、「ないです」って帰っちゃったこともある。
テレビの収録で、そこに客がいるっていうのに、「ちょっとネタやってみて」なんて言うディレクターもいた。本番前にネタを見なきゃ、俺たちの芸がわかんないなんて、間抜けなことを言うのだ。
「じゃあ、使わないでいいよ」って、あのときもそのまま家に帰った。
もちろん、何度も浅草に俺の漫才を見に来てくれて、面白いから使うと言ってくれる人もいるわけだ。名前が売れてないとか、若手だとか関係なく。
そういう人たちが、1980年代の漫才ブームを作ったのだ。
そしてテレビの世界が漫才ブーム一色になると、今まで帰れと言っていたヤツまでが、手のひらを返したように寄ってくるようになった。
「なんとか、出演してくれませんか?」
「お前、あのとき俺たちに『帰れ』って言わなかったか。ツービートの漫才は嫌いなんだろ?」
「局の方針でツービートを使えと言われたんです。漫才番組にツービートが出ないとおかしいと、スポンサーにも言われて....」
昨日までふんぞり返って、俺を「お前」呼ばわりしていた連中がぺこぺこ頭を下げる。性格の悪いオヤジみたいだけど、正直言って、あのときは気持ちがよかった。
仇[あだ]を討ったとは思わない。けれど、自分が間違ってなかったことを証明できたのが、なによりも嬉しかった。