「少女コレクション序説 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説 から

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「少女コレクション序説 - 澁澤龍彦」中公文庫 少女コレクション序説 から

「少女コレクション」という秀逸なタイトルを考え出したのは、自慢するわけではないが私である。おそらく、美しい少女ほど、コレクションの対象とするのにふさわしい存在はあるまい、と考えたからだ。蝶のように、貝殻のように、捺花のように、人形のように、可憐な少女をガラス箱のなかにコレクションするのは万人の夢であろう。『白雪姫』の小人たちは、毒林檎を食べさせられた白雪姫が死んでからも、まるで生きているように美しく赤い頬をしているので、これを土のなかに葬るに忍びず、透明な
ガラスの棺をつくらせて、その内部に姫を寝かせ、山の上に運んでいって、いつも自分たちで番をしているというが、さすがに知恵のある小人のことだけあって、うまいこと考えたものである。おまけに、このガラスの柩には、金文字で姫の名前が書きこまれ、姫が王女の身分であることまで一目で分るような仕掛になっていたらしい。これではまるで標本ではないか。ラベルにラテン語で新種の蝶の学名を書き入れるウラジミール・ナボコフ教授の情熱と、もしかしたら、それはぴったり重なり合うような種類の情熱だったのではあるまいか。
コレクションに対する情熱とは、いわば物体[オブジェ]に対する嗜好であろう。生きている動物や鳥をあつめても、それは一般にコレクションとは呼ばれないのである。艶やかな毛皮や極彩色の羽根を誇示していても、すでに体温のない冷たい物体、すなわち内部に綿をつめられ、眼窩にガラスの目玉をはめこまれた完全な剥製でなければ、それらはコレクションの対象とはなり得ないのだ。同様に、昆虫でも貝殻でも、生の記憶から出来るだけ遠ざかった、乾燥した標本となって初めてコレクションの対象となる。物体愛こそ、ほとんどエロティックな情熱に似た、私たちの蒐集癖の心理学的な基盤をなすものであろう。
誤解を避けるために一言しておくが、私はべつに、少女の剥製、少女の標本をつくることを読者諸子に教唆煽動しているわけではない。それが可能ならば、この上ない浄福を私たちにもたらすことでもあろうが、いかんせん、現実世界では犯罪のみが、かかる目的を辛うじて実現し得るにすぎないのだ。そうではなくて、私がここで読者諸子の注意を喚起せんとしているのは、少女という存在そのものの本質的な客体性だったのである。なにも私たちが剥製師の真似をして、少女の体内に綿をつめ、眼窩にガラスの目玉をはめこまなくても、少女という存在自体が、つねに幾分かは物体[オブジェ]であるという点を強調したかったのである。
もちろん、現代はいわゆるウーマン・リブの時代であり、女権拡張の時代であり、知性においても体力においても、男の独占権を脅しかねない積極的な若いお嬢さんが、ぞくぞく世に現われてきているのは事実でもあろう。しかしそれだけに、男たちの反時代的な夢は、純粋客体としての古典的な少女のイメージをなつかしく追い求めるのである。それは男の生理の必然であって、べつだん、その男が封建的な思想の持主だからではない。神話の時代から現代にいたるまで、そのような夢は男たちにおいて普遍的であった。老ゲーテや老ユゴーの少女嗜好を云々するまでもなく、サチュロスはニムフを好むものと相場がきまっているのである。シュルレアリストたちの喜ぶファンム・アンファン(子供てしての女)も、ハンス・ベルメールの関節人形も、そのような男の夢想の現代における集約的表現と考えて差支えあるまい。
小鳥も、犬も、猫も、少女も、みずからは語り出さない受身の存在であればこそ、私たち男にとって限りなくエロティックなのである。女の側から主体的に発せられる言葉は、つまり女の意志による精神的なコミュニケーションは、当節の流行言葉でいうならば、私たちの欲望を白けさせるものでしかないのだ。リビドーは本質的に男性のものであり、性欲は男だけの一方通行だと主張したのは、スペインの内分泌学の大家グレゴリオマラニョンであるが、そこまで極論しなくても、女の主体性を女の存在そのもののなかに封じこめ、女のあらゆる言葉を奪い去り、女を一個の物体に近づかしめれば近づかしめるほど、ますます男のリビドーが蒼白く活発に燃えあがるというメカニズムは、たぶん、男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向を証明するものにほかなるまい。そして、そのような男の性欲の本質的な傾向にもっとも都合よく応えるのが、そもそも少女という存在だったのである。なぜかと申せば、前にも述べた通り、少女は一般に社会的にま性的にも無知であり、無垢であり、小鳥や犬のように、主体的には語り出さない純粋客体、玩弄物的な存在をシンボライズしているからだ。
当然のことながら、そのような完全なファンム・オブジェ(客体としての女)は、厳密にいうならば男の観念のなかにしか存在し得ないであろう。そもそも男の性欲が観念的なのであるから、欲望する男の精神が表象する女も、観念的たらざるを得ないのは明らかなのだ。要は、その表象された女のイメージと、実在の少女とを、想像力の世界で、どこまで接近させ得るかの問題てあろう。女が一個のエロティックなオブジェと化するであろうような、生物学的進化ね夢想によって、ベルメールが苦心の末に完成した人形も、つまるところ、こうした観念と実在とを一致させる一つの試みと見なすことができるかもしれない。