「少女マンガの大きな目 - 佐藤忠男」日本の名随筆40顔から

 

 

「少女マンガの大きな目 - 佐藤忠男」日本の名随筆40顔から

 

昭和四十年代以後、日本の大衆文化の一角に大きな位置を占めているものに少女マンガがある。主として少女向きの週刊誌に発表されるマンガで、作者も多くは女性である。日本には明治時代から十代の少年を主な読者とする少年雑誌と、少女を主な読者とする少女雑誌とがあり、かつてはいずれも小説を主な内容にしていたのであるが、昭和二十年代にはじまるマンガ・ブームで小説中心の雑誌は急速に衰え、昭和三十年代の半ばにマンガ週刊誌によって取って代わられたのである。児童文学や児童マンガは世界中にあり、児童文学作品には女流作家による少女向きの作品、たとえば古くはオルコットの『若草物語』、新しくはモンゴメリの『赤毛のアン』といった有名な作品があるが、マンガの分野でとくに少女向けの専門週刊誌が数誌も競い合っているというのは日本特有のことであるように思われる。宝塚少女歌劇や松竹少女歌劇のように、若い娘たちだけで演じられて主として少女を観客とする演劇の存在は日本のユニークなものであると思われるが、それと共通する日本特有の少女文化である。
少年文化と少女文化とが別々のものとして存在する傾向はある程度までは世界的に見られるが日本でとくにこう、はっきりと分かれているのはなぜだろうか。おそらく、日本人の多くが今日なお、結婚においてお見合いという形式を選ぶことと関係があると思う。若者は自分で結婚の相手を見つけて求婚しなくても、親や親戚や上司や先輩が適当な相手をさがしてくれる。そして自分で結婚の申し込みをしなくても、仲介してくれた人によろしくお願いしますと言えばいいのである。
もちろん、恋愛結婚は戦前からあり、戦後はうんとふえたが、なおかつ見合い結婚は結婚の有力な形式として続いている。必ずしも相手に自分で申し込みをする必要がないのである。必要がないということは、愛情の告白をする訓練を少年少女時代からする必要がないということである。外国の少年少女は、親たち、大人たちの男女間の愛情表現の実際を日常的に目撃しながら、自分もいずれは異性に対してああいう態度をとらなければならないという準備をすすめる。異性とのデートでその予行演習乃至は実地練習もする。つまり少年少女のうたから、男女別々の文化圏を持つと同時に、共通の文化圏を持っていないと、将来うまく結婚申込みをすることができないかもしれないわけである。日本人は、もし恋をしたら、少年少女期からの訓練はなくても、なんとか糞度胸で間に合わせるしかないが、それだけの度胸もなく、またそもそも恋愛の相手を見つけることができなくても、見合いに期待していればいいわけである。だから、あえて少年少女期から男女共通の文化圏を持とうと努力しなくてもいいわけであり、じじつ、義務教育も高校の多くも男女共学であるにもかかわらず、男女共通の文化圏はなかなか成立しないのであると思う。むしろ学校制度だけが男女共通の文化圏をつくることを建前にしていて、それ以外の、家庭や社会はおおむね、少年と少女を別々の文化で育ててゆくという従来どおりの方式をあまり変えてはいないのが現状であろう。

少年文化と少女文化は平行して展開してきたわけだが、一般的に言えば、少年文化のほうがおおむね質量ともに豊かで、少女文化はそれより劣っていた。少年小説と少女小説の比較でもそう言える。少年マンガと少女マンガを比較してもそうだった。しかし近年、少女マンガの充実はかなり目ざましいものがある。
漫画研究家石子順造に「戦後マンガ史ノート」(一九七五年、紀伊国屋親書)という名著がある。この本では少女マンガの成立過程はつぎのようにとらえられている。
「戦前・戦中を通じて、とくに少女マンガと呼びうるほどのジャンルは日本でもなかった」
「昭和二十年代後半に早くも出揃っていた少女雑誌をみても・・・戦前からの少年マンガ家やおとなマンガ家が、主人公を少女にしただけの安易な作品をかいており・・・少女を主たる読者とするマンガをかくということの表現としての特性なり、主人公を少女にして何をどのようなドラマとして描くかといった問題が、かき手をふくめた送り手の側に、とくに意識されていなかったようなのである」
「だが三十年代後半に至って、ようやく変化があらわれてくる」ことになる。それは具体的には昭和三十八年における少女週刊誌「少女フレンド」と「マーガレット」の創刊であり、とくに後者に掲載された、わたなべまさこ「ミミとナナ」、関谷ひろし「チャッコ」、水野英子「黒水仙」、牧美也子「あにき」の四本の登場である。それらは「いずれも今日の少女マンガに通じる原型をかなりはっきり見せている。すなわち、絵は西洋のベビー人形のようで、コマ展開は絵物語とマンガのミックスといってよく、物語そのものより絵の流れで全体の情緒をもりあげてゆこうという描法である」
石子順造は昭和三十年代の日本の、マスコミには知られることなくひっそりと流行していたひとつの底辺文化であるところの貸本屋マンガにいち早く注目し、そこから劇画という巨大な分野が生まれてくる過程を同時代の同伴者として精密に記述してその意義を積極的に論じたユニークな評論家であった。貸本屋マンガというのはまったくの消耗品であり、おそらくは図書館にも収蔵されることなく、いつしかボロボロに破れて消えていった文化なので、そこでどんな創造が行われていたかということの詳細は分かりにくい。私など、当時の貸本屋マンガのうち少年マンガは若干読んでいるが、少女マンガまでは眼がとどかなかった。そこで石子順造の研究に依存して記述をすすめることにする。

西洋人形のように瞳が輝き、名前も西洋的なものであり、「王女とか貴族、富豪の娘といった身分でバレリーナやピアニストになりたがっており、なにひとつ不足ないみたいだが、ただ母とか父の愛情に飢えているといったお話が多い」-そんな少女マンガのパターンは主として昭和三十年代の前半から後半にかけて、貸本屋マンガの中で確立されたのである。貸本屋マンガは、大手出版社がマンガ週刊誌を大量出版するようになるにともなって衰退するが、同時に、貸本屋マンガの書き手たちのなかの目ぼしい人々は週刊誌マンガに迎えられて、それ以前よりはるかに大きな収入と人気を得るようになる。こうして貸本屋マンガから週刊誌マンガに移って大家になった少数の少女マンガ家のひとりが、前述の「マーガレット」創刊時に「ミミとナナ」を書いたわたなべまさこであり、彼女の作風はのちに多くの少女マンガ家たちに模倣され、今日にいたるまで少女マンガの基本的なスタイルになるわけである。
石子順造は、このようなスタイルのルーツを求めてこう書いている。
「貸本マンガにおけるそのような図象は、おそらく、戦前の『少女倶楽部』や戦後の『少女クラブ』に必ずといっていいほどついていた蕗谷虹児の色刷りの折込みをはじめ、江川みさお、糸賀君子、佐藤漾子、山本サダといった多くの挿絵画家の絵を稚拙に真似し、誇張することによって生まれてきたものと推定できる」-と。
以上、故き石子順造の研究にもとづいて少女クラブの成立過程をたどってきたが、私がこの過程をさかのぼることにとくに関心を持つ理由のひとつは、今日の少女マンガのほとんどを支配しているあの異様に大きな目という画風がどこから来たものかということである。じっさい、少女マンガ週刊誌などを手にして第一に印象づけられることは、登場するヒロインの多くがどれもこれも異様に大きな目をしていて、そのため、しばしばキャラクターの見分けさえ困難であることである。少年マンガにはそんなことはないので、これは今日の日本の少女マンガに特徴的なことであると言える。
石子順造は、戦前の「少女倶楽部」の挿絵画家たちというところまででひとまず探索をうち切っている。マンガの歴史という範囲ではこれで十分だと思うが、これをもっと、大きな流れのなかで見ることはできないだろうか。たしかに戦前の「少女倶楽部」には目の大きな少女を描く挿絵画家たちがいたが、じつはこの傾向はもっと広く、もっと古くからある。
いま私の手もとに、第二書房から一九七八年に発行された「薔薇の小部屋」夏の号という雑誌がある。内藤ルネの企画による「なつかしの少女雑誌」特集号で、そのカラー・グラビアに、昔の少女雑誌の表紙三十七枚があつめられている。明治四十四年の「少女世界」から、昭和二十五年の「ひまわり」まで、いずれも少女乃至若い女性の一種の美人画である。これで見ると、広島新太郎という画家の描いた大正八年の「少女」の表紙の絵が、すでにずいぶん目が大きい。もっとも、同じ年の「女学世界」の竹久夢二の絵、大正十四年の「少女画報」の高畠華宵の絵、昭和四年の「令女界」の岩田専太郎の絵などは、とくに目が大きいとは言えない。しかし蕗谷虹児などは大正十年の「少女画報」あたりからすでにかなり大きな目を描いている。昭和十年代には「少女の友」の中原淳一の表紙がとくに少女に人気があったようであるが、大きな目をしたモダーンな美少女のパターンはここで完成したと言っていいのではなかろうか。むしろ当時、「少女倶楽部」は農村少女の健康美などをテーマにしてぜんぜん目の大きくない絵なども使っている。
中原淳一は戦後も代表的な少女雑誌「ひまわり」や「それいゆ」に目の大きな美少女を描きつづけた。やがて少女雑誌は表紙に絵よりも写真を使う傾向が一般化してくるが、そのとき少女雑誌の表紙モデルとして圧倒的な売れっ子になったのは、異様なほどに目の大きな少女の松島トモ子だった。彼女は昭和二十五年から十年間にわたって「少女」の表紙モデルをしている。そしてその衣装デザインなどは中原淳一がやった。もうひとり、目の大きな少女スターに浅丘ルリ子がいたが、彼女はまだ中学生のころ、中原淳一が審査員をして行ったオーディションで発見されて映画出演のチャンスを掴んだのだった。

目の大きな少女というパターンは、これほど長く深く日本の少女たちに愛されつづけてきた。その理由はいったいどこにあるのだろう。
岩田専太郎竹久夢二高畠華宵などの絵がとくに目は大きくないことでも分かるように、伝統的な日本画美人画にはこういう表現はない。また油絵にしろ水彩画にしろ洋画の写実的な技法からもこういう表現は生まれない。もっとも、西洋美術というものをうんと長い目で見れば、古代エジプトや古代クレタ島にはすごく目の大きな女性の彫刻や絵がある。ただ、それらは、女性ではあってもたいへん力強いことが特徴であって、今日のわれわれの挿絵やマンガの目の大きな少女たちとはそこが基本的に違っている。大正八年の「少女」の表紙の目の大きな少女はすでに、いかにもおとなしそうな弱々しいタイプに描かれているが、蕗谷虹児中原淳一も、じつにもの憂げな、ただどこかから幸福がおとずれてくることをひっそりと待っているような少女たちを描いた。石子順造の前掲の本によれば、戦後の貸本屋マンガ時代の少女たちというのは「長くカールした髪で瞳が大きく光り輝いており、手足は奇型児というほかはなく細長く描かれていた」という。それほどではなくても、この傾向は明らかにその後の少女マンガに受け継がれている。古代エジプトや古代クレタ島美術における女の目の大きさは、邪馬台国卑弥呼にもつうじるような宗教的な場における女性の地位の高さと関係があるのではないかと思うが、どうやら今日の日本の少女マンガのそれとは関係がなさそうである。
では、大きな目とはなにか、ひとつ考えられることは幼児性ということかもしれない。幼児は頭だけ大きくてその割りに体や手足は小さい。つまり体全体のプロポーションからすれば目は大きい。だから目が大きいのは十代であっても幼児的に見え、かわいらしい。これは大きな目というのを石子順造が「西洋のベビー人形のような」と形容していることともつうじることである。ただし、大きな目は必ずしも西洋のベビー人形からアイデアを得たわけではないらしい。というのは大正時代ころの少女雑誌の表紙には、和服の純日本調で目の大きい少女も少なくないからである。幼児的なかわいらしさが理由であるとすれば、手足が細長く弱々しいということともぴったり合う。それは自分を幼児の立場において母親の愛情を求める気分の表現ということになる。
しかし、大きな目が昭和初期の蕗谷虹児中原淳一によって確固としたイメージに定着したとき、それが西洋的な感触と結びついて印象づけられたことも事実であり、それは、竹久夢二の肺病やみのような無気力なナヨナヨした古い日本的美人からの訣別の意味も持っていた。つまり、大きな目は、自我を抑えている古い日本の女性から、もっと積極的になにかを主張しようとして、まず大きく目を見開いて何かを見ようとしている姿であると言えよう。その主張を行動に移すだけの手足の強さはまだないが、男からただ見られて恥ずかしそうにうなだれているのではなく、やはりややうつむいてはいるけれども、上目づかいにパッチリ目を開けて男を見返そうとする姿勢がそこにはある。それが今日の萩尾望都竹宮恵子になると、そのパッチリした目はさらに相手を鋭く見守るものになる。竹久夢二の女の小さい目は、ただひたすら、男に見られていることのみを意識して自分の内側にとじ込もるものであったが、やがて、おなじ少女趣味と呼ばれるものの枠の中から、パッチリと外を見ようとする大きな目が望まれるようになってきたことはたしかである。その目が、つぎにどういう行動と結びつくか、刮目して見守りたいと思う。