「停車場の趣味 - 岡本綺堂」旺文社文庫 綺堂むかし語り から

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「停車場の趣味 - 岡本綺堂旺文社文庫 綺堂むかし語り から

以前は人形や玩具[おもちゃ]に趣味をもって、新古東西の瓦楽多[がらくた]をかなりに蒐集していたが、震災にその全部を灰にしてしまってから、再び蒐集するほどの元気もなくなった。殊に人形や玩具については、これまで新聞雑誌に再三書いたこともあるから、今度は更に他の方面について少し語りたい。
これは果たして趣味というべきものなのかどうだか判らないが、とにかく私は汽車の停車場というものについて頗る興味をもっている。汽車旅行をして駅々の停車場に到着したときに、車窓からその停車場をながめる。それが頗るおもしろい。尊い寺は門から知れると云うが、ある意味に於いて停車場は土地そのものの象徴と云ってよい。
そんな理窟はしばらく措[お]いて、停車場として最も私の興味をひくのは、小さい停車場か大きい停車場かの二つであって、どちら付かずの中ぐらいの停車場はあまり面白くない。殊におもしろいのは、一と列車に二、三人か五、六人ぐらいしか乗り降りのないような、寂しい地方の小さい停車場である。そういう停車場はすぐに人家のある町や村へつづいていない所もある。降りても人力車一台もないようなところもある。停車場の建物も勿論小さい。しかもそこには案外に大きい桜や桃の木などがあって、春は一面に咲きみだれている。小さな建物、大きい桜、その上を越えて遠い近い山々が青く霞んでみえる。停車場のわきには粗末な竹垣が結ってあって、汽車のひびきに馴れている鶏が平気で垣をくぐって出たり這入ったりしている。駅員が慰み半分に作っているらしい小さな菜畑なども見える。
夏から秋にかけては、こういう停車場には大きい百日紅や大きい桐や柳などが眼につくことがある。真っ紅に咲いた百日紅のかげに小さな休み茶屋の見えるのもある。芒の乱れているのもコスモスの繁っているのも、停車場というものを中心にして皆それぞれの画趣を作っている。駅の附近に草原や畑などが続いていて、停車している汽車の窓にも虫の声々が近く流れ込んで来ることもある。東海道五十三次をかいた広重が今生きていたらば、こうした駅々の停車場の姿を一々写生して、おそらく好個の風景画を作り出すであろう。
停車場はその土地の象徴であると、私は前に云ったが、直接にはその駅長や駅員らの趣味もうかがわれる。ある駅ではその設備や風致に頗る注意を払っているらしいのもあるが、その注意があまりに人工的になって、わざとらしく曲がりくねった松を栽えたり、桧葉[ひば]をまん丸く刈り込んだりしてあるのは、折角ながら却っておもしろくない。やはり周囲の野趣をそのまま取り入れて、あくまでも自然に作った方がおもしろい。長い汽車旅行に疲れた乗客の眼もそれに因っていかに慰められるか判らない。汽車そのものが文明的の交通機関であるからと云って、停車場の風致までを生半可な東京風などに作ろうとするのは考えものである。
大きな停車場は車窓から眺めるよりも、自分が構内の人となった方がよい。勿論、そこには地方の小停車場に見るような詩趣も画趣も見いだせないのであるが、なんとなく一種の雄大な感が湧く。そうして、そこには単なる混雑以外に一種の活気が見いだされる。汽車に乗る人、降りる人、かならずしも活気のある人たちばかりでもあるまい。親や友達の死を聞いて帰る人もあろう。自分の病いのために帰郷する人もあろう、地方で失敗して都会へ職業を求めに来た人もあろう、千差万別、もとより一概には云えないのであるが、その人たちが大きい停車場の混雑した空気につつまれた時、たれもかれも一種の活気を帯びた人のように見られる。単に、あわただしいと云ってしまえばそれ迄であるが、私はその間に生き生きした気分を感じて、いつも愉快に思う。
汽車の出たあとの静けさ、殊に夜汽車の汽笛をひびかせ遠く消えて、見送りの人々などが静かに帰ってゆく。その寂しいような心持ちもまたわるくない。わたしは麹町に長く住んでいるので、秋の宵などには散歩ながら四谷の停車場へ出て行く。この停車場は大でもなく小でもなく、わたしには余り面白くない中くらいのところであるが、それでも汽車の出たあとの静かな気分を味わうことが出来る。堤[どて]の松の大樹の上に冴えた月のかかっている夜などは殊によい。若いときは格別、近年は甚だ出不精になって、旅行する機会もだんだんに少なくなったが、停車場という乾燥無味のような言葉も、わたしの耳にはなつかしく聞こえるのである。
(大正15・8「時事新報」)