「せまい家からの眺め - 天野祐吉」ちくま文庫 バカだなア から

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「せまい家からの眺め - 天野祐吉ちくま文庫 バカだなア から

近ごろは、ガランドーの部屋がハヤリである。家具をゴタゴタ並べて部屋を飾り立てるのは、時代遅れなんだそうです。
そう言えば、テレビのコマーシャルなんかに出てくるおしゃれな部屋は、たいていがガランドーで、壁からブラインドまですべて白ずくめと相場が決まっている。そんな部屋にジーパンをはいた美しい女性がアグラをかき、カンビールを飲みながら電話をかけていたりすると、これはもう一〇〇%CM的な風景ということになる。
十年くらい前までは、まったく事情が違った。部屋に北欧調のしゃれた家具を置き、シャンデリアの下でソファーに深々と身を沈めてスコッチを飲んでいたりするのが、典型的なCMの風景だった。おっちょこちょいのぼくなどは、そういうCMに踊らされ、十カ月払いで北欧風の家具や調度を一生けんめい買いそろえたものである。
そのころのぼくらにとっては、ガランドーの部屋は、貧しさのあらわれだった。空間があいているということは、部屋にあるべきものがまだ買えないということの悲しい証明でしかなかった。空間があいていることがこわくて、なんとか早くそれを埋めようと、ぼくらはせっせと働きつづけてきたように思う。
が、その結果は、サンタンたることになった。家のなかでものがギュウギュウになって、身動きができなくなってしまったのである。いまから思えばずいぶんバカな話だけれど、家具の容れ物としての家の決定的な小ささを、ぼくらは完全に見誤っていたのだ。CMのなかの部屋は十五畳くらいはあったのに、それと同じものをわが家の六畳でやろうとしたものだから、これは最初からムリな話だったのである。
そんな苦い思いがあるだけに、近ごろハヤリのガランドーの部屋をみると、ぼくはとてもうらやましい。貧しい時代のガランドーと豊かな時代のガランドーは、こうも違うものかと、感心してしまう。いっそのこと、わが家も、家具や調度をぜんぶ捨ててしまおうかと思ったこともあるが、もったいなくて何一つ捨てられないところがまた、ぼくらの世代の悲しさである。
もっとも、近ごろハヤリのガランドーの部屋に住んでいる後輩の夫婦によると、思ったほど居心地はよくないという。「十五畳くらいあれば別ですけど、うちの居間は六畳ですから」と、ぼくがむかし感じたのと同じことを言ったのにはおどろいた。ガランドーの部屋が、カッコいいのは、部屋がやたらに大きいからであって、物だらけにしようがガランドーにしようが、家が小さいという絶対条件がついてまわるかぎり、ぼくらはCMのなかのような生活を生きることは決してできないのだろう。
ことしは「国際居住年」だという。で、数字の上から見ると、世界のなかでも日本は住生活に恵まれているほうだという。数字の上ではそうなのかも知れないし、世界には住む家もロクにない人がたくさんいるということもわかるけれど、それでもぼくたちの住生活が恵まれているなんて実感はまったくない。それもこれも、家があまりにせますぎるからだ。
思うにこうした家のせまさは、ぼくたちのモノの考え方や行動にも、いろいろなカタチでカゲを落としているのではないかという気がする。
道を行く人たちがあんなにせかせかしているのも、テレビの番組があんなにバタバタしているのも、とにかく日本人の考えることや、することがやたらセコいのは、どう考えても家のせいなんじゃないだろうか。
が、いまさら広い家が欲しいと言っても、たぶんこの国では、願いが叶えられそうにない。とくに東京に住んでいるぼくのような人間には、広い家に住むなんてことは夢のまた夢みたいなもんだろう。なにせこの国は、国民をせまい小屋に押しこめたまま、それ内需拡大だ、もっと物を買え、もっともっと家のなかに物を押しこめ、と無理難題をふっかける国なのだ。
こうなったら、ガランドーの部屋なんかはあきらめて、物でギュウギュウになっているいまの部屋に超デラックスのシャンデリアを吊り、超大型のテレビでも入れて、ヤケッパチの生活をするしかない、とぼくは思っている。
そのときは、部屋のなかにもう足のふみ場もないハズだから、家の外に出て窓からテレビを見て暮らすことにしよう。