「いい気な「おせち」を叱る - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

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「いい気な「おせち」を叱る - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

おせちはこのところ、少しいい気になっているのではないか。
この正月、おせち料理とつきあって、なにかこう釈然としないもの、腑におちないものを感じた方々も多かったのではないだろうか。
近ごろ、おせちに疑問が多いとお嘆きの諸兄に、この辛口の一文を捧げたいと思う。
おせちは、伝統とか、儀式とか、由来とか、そういうものの上にアグラをかいていい気になっているような気がする。
四段重ねで十二万円のおせち料理さえあるという。
おせちは明らかに時代とズレてきているようだ。
正月の朝、おとそで祝って酒になり、おせちを少しつまみ、そのあとお雑煮を食べ、
「ア-、もうおなかいっぱい」ということになり、「さあ、テレビテレビ」ということになってテレビの前のコタツにもぐりこむ。このパターンがニッポンの一般ピープルの間でいちばん多かったのではないだろうか。テレビを見ているうちにいつしか半眼となり、ついウトウト。「ホラホラお父さん冷えるじゃありませんか」と、お母さんに、暮れのお歳暮に取引先からもらった安そうな化繊の毛布をかけてもらってひと眠りする。するともうお昼。
お昼にまたおせちが出てくる。
それを見て、「おせち、もう見たくないッ」と怒りだしたお父さんもいたはずだ。
昔ならいざしらず、現代の多様な食生活の中にあっては、おせちの魅力はきわめて薄い。カマボコなんてものは、ふだんだって、あんまり食いたいとは思わぬ。竹の子、ゴボウ、フキの煮つけだってそうだ。こんなものはホカ弁でしょっちゅう食べている。
いまさらおせち面[づら]して出てくるなっつーのッ。オイラ食べあきてるってーのッ。.....はしたなくも突然たけしになってしまったが、まあ、あの連中はあれでいいとして、あの煮干しの佃煮みたいなゴマメ(田作り)に至ってはヒドイといわざるをえない。あんなものはいまどき猫だって食べない。猫も食べないものを、正月に出すなっつーのッ。(.....またしても申しわけない)
ゴマメは見るからに貧相である。貧から身を起こして、ようやくおせち一族に加えてもらったという感じがする。しかし、身についた品性は消しうべくもなく、どこか卑しい。
カマボコや伊達巻きなどの華々しさの中にあって身なりも貧しい。そしてクライ。
どう考えても、晴れの舞台に似つかわしく連中である。
こんなことをいうと、
「キミは、なんかこう、しきりにゴマメをいじめているようだが、ゴマメをなめてはいけないよ。ゴマメにはちゃんとした大義名分がある。ゴマメは田作りといってですね、五穀豊穣、豊作祈願という主義主張をもっておせちの席に臨席しているのです」
などという人が出てくる。(樋口清之先生あたりですね)
しかし、今は減反の時代なのだ。五穀豊穣、豊作祈願は国策に反する。かえって迷惑なのだ。
ゴマメに限らず、おせちに列席している連中は、みなそれぞれに、いわく因縁、故事来歴があるという。
例えば黒豆は「マメに暮らす。マメに働く」代表として列席しており、昆布巻きは「よろこぶ」代表であり、海老は「長寿祈願」、カズノコは「多産、子孫繁栄」派で、栗キントンは「栗はカチグリということで勝利」称賛党、というように、それぞれがなんらかの意見の代表として乗りこんでいるらしいのだ。
しかし、これ、一見、日本の伝統と格式とポリシーに裏打ちされた揺るぎない理論のように見えるが、よく考えてみると、ほとんどが万才ネタともいえるダジャレの一種ではないのか。しかもいってることがみんな古すぎる。
カズノコの主張している「多産、子孫繁栄」などは、時代錯誤もはなはだしいうえに、中国あたりから抗議される恐れもある。黒豆がいわんとするところの「マメに働く」などは、ECあたりに知られたら国際問題になりかねない。
五穀豊穣、子孫繁栄、国運隆盛、勤労推奨、すべて時代にマッチしていない。
現代のおせちには、減反減税、住宅拡大、家庭崩壊阻止、貿易黒字解消、北方領土返還、といった今日的テーマを盛りこむべきではないのか。
北方領土返還祈願には鮭、家庭崩壊阻止には鍋物、貿易黒字解消には牛肉、オレンジと、代わるべき代表はいくらでもいる。
おせちに列席している連中は、すべて主義主張があるのかというとそうでもない連中もいるのである。ここのところも、おせちに反省を促したい問題点である。
たとえば、先ほども出てきたが、ホカ弁出身の竹の子、ゴボウ、フキの煮つけ一族。彼らにはどういう主義主張があるのか。
「いいたいことがあるならいってみろ」
といわれても、おそらくなにもいえずにうつむくだけであろう。
栗キントンにしてもそうだ。
栗のほうの主張はわからぬでもないが、朋友のイモのほうは(ねばってるほうですね)いったいなにを主張したいのか。
「いいたいことがあるならいってみろ」
といわれても、
「いえ、なにもありません。ただねばってるだけです」
としかいえないのではないか。
以上のようなことを申しのべると、
「いやいや、こういう伝統とか様式とか、そういうものにのっとったものは、なまじ改善したり工夫したりしないほうがいいのです。いじってはいけません」
という人が出てくる。
「このままでいいんだ。体制維持でいくんだ。大丈夫なんだ。しようがないんだ。いろいろ事情があるんだ」
そういう意見は必ず出てくる。
だがよく考えてみよう。同じように、
「このままでいいんだ。大丈夫なんだ。しようがないんだ。いろいろ事情があるんだ」
といっているうちにだんだんおかしくなっていったものがあるでしょう。
そうです。国鉄です。
「大丈夫。事情があるんだ」といい続けているうちに、ついに倒産したではないですか。(あれは倒産とはいわないか)
おせちだって、このままいけばいつ倒産してもおかしくない状況にあるのだ。
国鉄当局だって、いまの憂き目を見るまでは、まさかそうなるとは思っていなかったはずだ。
このへんを、おせち当局はどう考えているのか。おせち当局の猛反省を促して、この辛口の一文を終わりたいと思う。