「力士と酒 - 林盈六[えいろく](日本相撲協会医師)」文春文庫 巻頭随筆4 から

f:id:nprtheeconomistworld:20200116081728j:plain


「力士と酒 - 林盈六[えいろく](日本相撲協会医師)」文春文庫 巻頭随筆4 から

兼好法師徒然草」の何段かの章に次のような文章があった。
「おのこにして酒飲めぬは玉の杯底なきが如し」というものである。気の合った友人と飲む酒、美人と飲む酒、それぞれに趣があって楽しい。力士達と飲むのもまたたのしい。富士桜関とは四、五回手合せをした。いずれも高砂部屋の近くの居酒屋においてだった。彼は純粋な日本酒党である。回転の早い彼の押しや突張りの如く、コップ酒をグイグイとやる。そのペースは極めて早い。やっている途中で体のことが心配になる。「先生、おれの肝臓大丈夫かな?近いうち検査してよ」とくる。定量は一升だぞうだ。場所中、勝てば祝杯と称し、負ければ残念酒と称して飲む。時々、度を過すそうだ。彼が肝臓のことを気にし出した時は酔って来た証拠である。
出羽の花関も日本酒党でありかつ強い。一体に東北出身の力士は日本酒党が多い。彼は静かにゆっくり飲む部類である。話題もかなりインテリくさい。ところで、このように年中酒を飲んでいる力士諸君の肝臓はどうなっているのだろうか。人ごとながら心配になる。しかし、二人とも肝臓機能検査でひっかかる点がないのである。出羽の花関など、前の晩、実に三升を飲んでその翌朝来てもらい、採血し検査したことがある。全く普段のデータと変るところがなかった。アルコールで肝臓を壊すというのには個人差がかなりあるようである。日本酒に換算して毎日五合以上を十数年間飲みつづけると、肝硬変は必至だという。私の知っている親方で、それ以上の歳月を五合ペースで飲みつづけていて何ら異常のない人もいる。一方、アルコールは全くだめなのに肝硬変になる人もいる。
酒を飲むと肥[ふと]るという。これは間違いだと思う。力士諸君をみても、酒だけを飲んだあと、体重を量るとたいていの場合若干減っている。健康体なら、アルコールは抗利尿ホルモンの働きを抑え、飲んだ量以上の水分を対外へ排泄するからでもある。それに飲んでも発散するカロリーとなってしまい、蓄積のカロリーにはならないからではないだろうか。おかしいと思われる方は自ら実験してみるとわかる。酒を飲んで肥るというのは一緒に食べる肴のカロリーによるものであろう。今時、おつまみをとらずに酒だけ飲むという人は先ず存在しない。だから肥るのである。発散するカロリー源としては最適のものだから、一杯軽くひっかけて体を使うと馬鹿力が出るのである。
ところで、酒が強い弱いとは一体どういうことなのだろうか。日本人はアルコールに弱い民族である。だから、本当の大酒家というものは少い。したがってアルコールが原因の肝硬変も少い。アルコールを飲んですぐ悪酔いしたり、顔が赤くなったりするのはアセトアルデヒドという物質が分解されずに体内に残るからである。肝臓にはMEOSという酵素がある。この酵素がアルコールを分解するのである。この酵素が多いか少いかは持って生れた個人差が甚しい。この酵素は鍛えれば鍛えるほど、ある程度増量してくる性質がある。だから酒は飲んでは吐き、吐いては飲んで稽古するとこの酵素をある程度持っている人は強くなるのである。しかし自然はよくしたもので、アルコールから三カ月も遠のいているとこの酵素はどんどん弱くなってくる。酒飲みに麻酔はかかりにくい。だから手術の時痛い思いをしなければならないと言われているが、これは事実である。この酵素はクスリを分解する作用をもあわせ持っているからである。酒飲みはこれが多く存在しているから大量の麻酔でないと効かないわけである。
日本酒一合はご飯一杯とカロリーがほとんど等しい。だから糖尿病の場合とか減量でカロリー制限をしている時、日本酒一合飲んだらその分ご飯を一杯へらせという通説がある。しかし、これはカロリー計算上の理屈に過ぎない。食べ物、飲み物にはそれぞれ個性があり魂がある。ご飯は食べれば勿論カロリーになるし、蓄積にも転化される。ところが、アルコールはカロリーにはなるが、蓄積には回らないと思う。アルコールを飲み、肴をつまんだ場合の総カロリーと、アルコールを飲み、ご飯を食べ、おかずを食べた場合の総カロリーが、計算上全く等しい時、前者の方が体重が減少している。これは何人かの力士について行った本人の意志による人体実験の結果明白である。
ともあれ、適度のアルコール、つまり日本酒で一~二合、ビール一~二本、ウイスキー水割り四~五杯を毎日たしなんでいると、医学的にみて動脈硬化になりにくいというデータが認められている。この程度だったら気休めの週二日の休肝日など不要だと思う。親方衆に言わせると、酒が飲めない力士が一番困るという。理由は負け相撲の場合、気分転換がいち早く出来ないからだそうだ。そう言えば強い力士は酒も強い。北の湖しかり、隆の里もそうだ。名古屋場所で優勝した若嶋津も強い。それに三人ともタバコはやらない。タバコは酒害を増強するし、適度の飲酒で生じた動脈硬化を防ぐ物質も駄目にしてしまう。力士社会に酒は付き物である。お互い上手に飲んで頑張りたいものだ。