「横綱だったころ - 小池真理子」中公文庫 「私の酒」から

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横綱だったころ - 小池真理子」中公文庫 「私の酒」から
 

私は一九五二年生まれ。全共闘世代よりも少し若いが、学園紛争が吹き荒れる中、高校生活を送ったクチである。
初めてアルコール類を口にしたのは高校二年の時。友人にシャンソンとジャズが好きなフーテンふうの女の子がいて、その子の家に遊びに行くと、決まってこっそり、あやしげなワインを出された。スパークリングワインだったように思うのだが、定かではない。
彼女の部屋には香が炊かれ、間接照明の中、けだるいジャズが流れていた。グラスに注がれるままに、くいくい飲み、そのまま家に帰った。親に酒を咎められたことはないから、多分、酒臭くはなかったのだろう。
タバコと酒、どちらが早かったのか、覚えていない。ジャズ喫茶やバロック喫茶に入りびたっては煙草を吸い、その子の家に遊びに行って妙なワインまがいのものを飲み、そんなふうにして高校時代は過ぎていった。
大学に入学すると同時に、別段、その方面に志を抱いていたわけではないのだが、なんとなく成り行き上、哲学研究部というクラブに入った。酒豪揃いのクラブだった。小汚い部屋では、昼間っから、部員たちがビールを飲み、誰が作ったのか、これまた汚い巨大な火鉢の灰の上でスルメなんかを焼いて食べながら、馬券やマージャンの話をしていた。そういう雰囲気はけっこう好きだった。
コンパがあると、昨今のイッキ飲みなんか目じゃないほど、全員が飲み狂う。当然、新入生だった私はその洗礼を受けた。
初めてのクラブ合宿で能登に行った時のこと。同じ新入部員の女の子と二人、「よし、飲むぞ」と息巻き、短時間でビールの大びんを八本あけ、意識不明ながら、オシッコ、オシッコと騒いで、先輩にトイレに連れて行ってもらったらしいのだが、覚えていない。
合宿のたびに、わがクラブ員は民宿の人たちに白い目で見られ、二度と来ないでほしい、と言われていた。仏壇にオシッコをかけるヤツ、オレは鳥だ、と叫んで二階の窓から飛んでみせ、民宿の主の車の屋根をぶっ壊すヤツ......そういうのを間近に見ながら学生生活を送ったせいだろう。私は酔っぱらいに対して「まあ、いやあね」と眉をひそめる種類の女にはなれなかった。やはり、経験というものは、ヒトのフトコロを深くするものであるらしい。
ともかく、そんな具合だったから、私の肝臓は夜毎に強化されていった。合宿先で酒豪の男子学生と差しで飲み競争をし、互いにウイスキー一本ずつ空けて、足りなくなったものだから、徒歩二十分の距離を懐中電灯を手に歩いて酒屋まで行き、さらにもう一本買って来て、三分の一ほど飲み、その後、ディスコ大会で朝まで踊ったこともある。競争相手の男の子は二本目を飲み始めた途中から気分が悪くなり、沈没。私は文句なく酒豪番付で横綱の栄誉に輝き、大満足であった。
卒業後も似たりよったりの日々が続いた。思い返せば、よく飲んだものである。あれはいったい何だったのだろう。
私は決して酒好きな人間ではない。むろん、おいしいとは思う。暑い日の冷たいビールは最高だし、寒い日の熱燗には心震える。だが、それも初めの一杯だけ。酒に対する肉体の渇きは、最初の一杯で充分、満たされる。あとは惰性。酔わないので、水のように飲んでしまうだけであり、別に飲まなくても平気だから、夜になるとネオンの灯が恋しくなる、という人の気持ちはよくわからない。私は喉がかわいたら別にアルコールでなくても、サイダーやカルピスで充分なのだ。
そういう人間が、酒を飲むということは、酒に対する冒?だ、と言われたこともある。酒というものは、酔って精神を弛緩させるためにあるものなのだから、酔わないヤツは無駄だから飲むな、というわけで、それも一理ある、と妙に納得させられた。
三十になって今の夫と一緒になった。暮らし始めた当初はよく二人で飲んだ。たいてい夜十一時ころから飲み始め、外が明るくなるまで飲んで、飽きもせず喋っている。我々の好物はバーボンなのだが、それこそ毎週、酒屋さんにまとめて届けてもらうほどの勢いだった。
それがめっきり弱くなったのはいつからだろう。三十代の終りころからか。今では、ちょっと深酒すると、まず間違いなく二日酔いになる。翌日はまず、使いものにならない。ソルマックバファリンを飲んで、ぐだぐだしているのが関の山。当然、原稿は書けない。締切が迫っていても、ワープロの文字が歪んで見える。情けなや。
酒に弱くなり、飲まないことが多くなったせいか。私の肝臓は健康らしい。医者に先日、「見本のようです」と太鼓判を押され、おかしな話なのだが、この年であんまり肝臓がきれいだと言われると、なんだか健全な婆さんになってしまったような気がして面白くない。横綱だったころがひたすら懐かしい今日このごろである。