「3/3私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から

イメージ 1


「3/3私のウイスキイ史 - 山口瞳」河出書房 人生論手帖 から

あの威厳は、あの神秘性はどこへ行った?

昭和三十三年、サントリー(当時の社名は洋酒の寿屋であったが)に入社した。
ここでは、ウイスキイを飲むことも仕事だった。酒場(バー)調査なんていう時間外の仕事もあった。他社の新製品を飲むのも勿論仕事だった。私の机の上には自社製品、他社製品、スコッチが常に置かれていた。“洋酒天国”とはこれだと思った。
鳥井社長(当時)、佐治専務(当時・現会長)をはじめとする鳥井一族は酔っぱらいが嫌いだった。私はこれが不思議でしょうがなかった。酒をたくさん飲んで酔っぱらう。だから酔っぱらいが増えれば酒屋は儲かる。なぜ酔っぱらいが嫌いなのか。その意味がわかったのは、つい最近のことである。私には控えて飲む、穏やかに飲むなんて気持がこれっぽっちもなかった。酒は酔っぱらうまで飲むものだと思っていた。つくづくと情ない。
私の部署は宣伝部であるが、ウイスキイはストロングからマイルドに移動する時期に入社したことになる。宣伝文句にストロングはほとんど禁句になりかかっていた。これが私には意外であり不可解だった。私にとってウイスキイは男の酒だった。真剣に飲むべきものだった。だからストレイトしか飲まない。私のウイスキイの歴史からしても酒は特にウイスキイは命がけで飲むべきものだった。「酒を水で割って飲むほど貧乏しちゃいねえや」と、よく酒場で叫んだものである。カクテルなんか飲まない。ジンもストレイトで飲んだ。割って飲むのはハイボールだけだった。いわんやブランデーを水で割るにおいておや。
真剣に飲んだからウイスキイの味がわかるようになった。売れているウイスキイなら黙って一口ふくんで銘柄を当てることができた。東京会館のカウンターバーが好きで、銭(かね)もないくせによく通った。同じショット・グラス八箇をバーテンダーに用意してもらう。そこへ異なるウイスキイを満たしてくれるように頼む。私は別室に去る。主にその間に小便をしたものだ。カウンターに戻って、百発百中、何度やっても間違いがなかった。だけど、言いたかないけど、これは銭もかかった。酔い方も相当なものだった。私は命がけで真剣に飲んだ。
入社して間もない頃、工場の研究室に用事があってサントリーの山崎工場へ行った。そのとき試験管で飲んだウイスキイの原酒の美味かったこと、これも忘れられない。酒類はアルコール度数の高いものほど美味いという宿命がある。ロシアのエリツィン大統領もこの意見に賛成してくれるだろう。私の知るかぎり、エリツィンと、俳優の蒼い目のピーター・オトゥールの二人は強い酒をストレイトで飲む顔をしている。私が山崎工場でウイスキイの原酒の樽の貯蔵庫を見たときの感動をどう伝えたらいいだろうか。私は「俺は、これで、もう喰いっぱぐれにはならない」と思ったものだ。この感動は戦中派でないと理解しにくいかもしれない。ずいぶんセコイ感動だけれど、どんな不況になっても、この樽を切り売 りしていけば喰うことだけは喰える。なにしろ、私はバクダンを飲んで百米も疾走した男なのだ。
さて、いまの私はウイスキイを水で割って飲む。特に寝酒がそうだ。裏切られたと思う方は六十七歳という年齢に免じて許してもらいたい。高齢となって喉、食道、胃を保護しなければならなくなっている。
若い人たちは酒を飲むのが上手になってきた。私のように命がけで飲む馬鹿者は相手にされないだろう。若いサラリーマンが高価な酒を飲む。女性が煙草を吸いながら体を傾けてチビリチビリやっている。屋台村なんてものがあって、これが大入り満員の盛況であるという。赤提灯はうらぶれた中年男の行くところではなくなった。女たちは二次会三次会も平気でつきあう。早く消えてくれと思う時がないわけではない。しかし、これが大衆社会化状況の行きつく果てなのである。
ウイスキイの威厳が失われつつある。畏敬の念がない。神秘性も消滅しかかっている。
これはウイスキイだけのことではない。世の中全体がそうなってきた。概して言えば、これは良いことだろう。
私は、依然としてウイスキイを愛している。なんだか自分の人生そのものであったような気さえしている。あるいは最も信頼できる友人か。この感じは、やはり、百米の疾走から来ているように思われる。だから、私は、これからも変らずにウイスキイという酒には畏敬の念を抱き続けてゆくことになるだろう。