「潮見坂 - 横関英一」中公文庫 江戸の坂東京の坂 から

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「潮見坂 - 横関英一」中公文庫 江戸の坂東京の坂 から

富士見坂と同じような坂に、潮見坂がある。東京の潮見坂は、ほとんどみな東向きである。すなわち東京湾の海が見える坂なのである。江戸時代においても同様である。佃沖の海と言い、袖が浦の海と言っても、東京湾の一部である。ただ年代が古くなればなるほど、海が近くに見えたのである。深川、本所はもちろんのこと、日本橋、京橋方面が海であったころの潮見坂もあれば、牛天神下(今の江戸川端一帯の低い地)が、入り江になっていたころの潮見坂もある。
潮見坂は汐見坂、塩見坂などといろいろに書かれたが、意味は同じで、海が見える坂ということである。ふつう、潮見坂または汐見坂と書かれることが多いが、ただ汐見のほうが絵図などの木版印刷には刻字が簡単で便利であったから、昔はさかんに使われたものである。
江戸時代から潮見坂と呼ばれていた坂は、七つ八つを数えることができるが、今日でもなお海が見えるという潮見坂は一つもない、芝の伊皿子台から田町九丁目へ下る潮見坂などはごく最近まで、今の高輪二丁目一番辺から、東京湾がよく見えたものである。昔の潮見坂は、今の坂路のように、途中から曲って泉岳寺前へ向かっていたのではない。まっすぐに田町九丁目へ下っていたのである。広重の「坂づくし」にも描かれ、長谷川雪旦も『江戸名所図絵』のさし絵としてかいた坂であった。今は昔のような傾斜はない。それでも、戦前までは、一段高い歩道に立って東を望めば、品川の海がよく見えて、御台場をはじめ大小の船が手にとるように見えたものである。昔から潮見坂という名前どおりの坂であったが、今日ではもうだめである。この坂でさえもう海が見えなくなってしまったのであるから、他の潮見坂から海が見えないのは当然である。
江戸の昔から、潮見坂という名前を持っていた坂はだめだとしても、潮見坂の名は持たなくとも、昔からその坂の上から海の見えた坂は、いくつかあったはずである。しかし、これらの坂も最も近い将来において、海の見えない坂となってしまうことは想像できる。東京湾の埋立てと海岸に近いところの高いビルの建設とは、われわれの目から、日ごとに海を隠してしまうからである。
三田功運町の聖坂の中腹から西へ、旧松平邸の前へ上る潮見坂からは、今日ではもう海は見えない。それから麻布東鳥居坂町の潮見坂からも海は見えない。霞が関の外務省南わきを西へ上る潮見坂も、今では海の見えない潮見坂となってしまった。目の前に日比谷公会堂、勧業銀行などの高い建物ができてからのことである。
赤坂葵町のホテルオークラ(もとの大倉集古館)前の潮見坂などは、よほど古い潮見坂と見えて、古くから海の見えない潮見坂であった。大和坂という別名がある。ホテルオークラのあるところ一帯かま、昔の松平大和守の屋敷であったからである。
本郷の団子坂も昔は潮見坂と呼ばれた。この坂の上からは、佃沖の海が見えたということである。北向きの坂であるから、今日では海が見えるわけがない。
江戸旧本丸内にも潮見坂があった。本丸から二之丸に下るところで、坂の下は、その後主馬寮馬場のあったところである。今日でも、この坂はりっぱに残っている。ここのところは皇居東御苑命名されて、昭和四十三年十月一日から一般に開放された。ここの潮見坂も、今度は自由に見ることができる。しかし、この坂からは海は見えない。名ばかりの潮見坂である。天和二年の『紫の一本[ひともと]』は、この坂のことを、「塩見坂、梅林坂の上切手御門の内也、此所より海よく見え、塩のさしくる時、波ただここもとによるやうなる故、塩見坂といふ也(今は家居にかくれて見えず)」と書いているので、そのころからすでにこの坂の上からは、海は見えなかったのであろう。
小石川大和町、牛天神の裏手の牛坂も、古くは潮見坂と呼ばれた。これは西向きの坂であるから、東京湾の海が見えた潮見坂とは違う。牛天神付近が、往古の入り江であったころのことで、古い潮見坂である。鮫干坂[さめぼしざか]、蛎殻坂[かきがらざか]の別名があったころのことである。
潮見坂と呼ばれたことはないが、海のよく見えた坂としては、芝の下高輪町の桂坂があった。高輪警察署と高輪消防署との間の道を東へ下る坂である。それから品川駅前を西に上る柘榴坂[ざくろざか]からも、品川の海がすぐ目の前に見えたものである。しかし、今日ではもう芝浦方面の高いビルの幕にさえぎられて、海は見ることができなくなった。それから芝功運町の聖坂からは、東の方、人家の切れ目から、青い海がちょっぴりのぞかれたものだが、これももうだめにきまっている。
また大森の八景坂からも、広々とした大きな海が見えたものである。この坂は別に、東向きの坂ではないのだが、そのころは埋立て前で、海岸が近いからよく海が見えたのであるが、今日ではもう見えない。しかし、この八景坂は新しい八景坂のことであって、古い昔の八景坂[やけいざか](薬研坂とも)からは、今でも海は見える。すなわち、天祖神社の境内から正面の日立のマークのついたビルと中川三郎ダンスと書かれたビルとの間に、天気のよい日は、ピカピカ光った海が見え、白い船や黒い船の航行するありさまがはっきりと見える。広重の昔の「やけい坂」上が、ちょうど今の天祖神社の境内にあたる。本当に今日では、ここしか海の見える坂はなくなってしまった。しかし、この坂は潮見坂という名は持っていなかった。江戸の坂で、海の見える坂は、とうとうここだけになってしまった。だが、やがてここからも海は見えなくなってしまうのであろう。
富士見坂と言い、潮見坂と言い、古くは江戸城のお天守のように、江戸っ子があれほど自慢にしていたものが、こうしてだんだんに消えて行くのを見ると、たしかにたまらないさびしさである。ところが、潮見坂という名前の本家本元である東海道の潮見坂は、今なお健在である。